ストア主義的

ストア主義者が、自分で自分の行状に命じた儀式ばった態度のために胸苦しく感じるときに、ストア主義者の快活さが生じる。彼はそのとき、自分を支配者として享楽するのである。 曙光 251

一種の苦行による快楽のような構図です。自制、自戒により自らを知的で本能に支配されていないとの「確信」を得るための一つの指針が、胸苦しく感じる瞬間です。自分で自分に命令しているという、支配者としての自認という構造になっていますが、支配していると思わなければならないと渇望している根底には、コントロールしなければならないという、条件付け、そして恐怖心があります。

今も昔も、「自制のために」という方法論として、権威や妄想上の「上位の存在」を仮定し、その命令に適うか否か、という手法や、もしくは独立していても、自らを戒めているという自己コントロールの確認という方式をとっているのがほとんどです。

しかし、そうして自己をコントロール「しなければならない」と思う衝動はどこから来るのでしょうか。それは判断の誤りでしょうか。「判断の誤り」の前に、判断しようと試みた、その手前の衝動が必ずあるはずです。

合理性がないという意味で、判断の誤りは、プロセスの後半に起こることです。前半には必ず、非言語的、そして本能的な無意識的衝動があるはずです。

衝動と判断

寝返りひとつでも、触覚的に不快で、それを解消したいという衝動が先にあります。その寝返り方を間違えてベッドから落ちるというのは、それよりもだいぶ後の結果です。まず衝動が起こって、その衝動により、行為を促させられ、行為の方法の判断の誤りなどによって、転落という結果が生じています。

かなり後の話です。そしてその衝動は、頭で考えて起こそうと思って起こした衝動ではありません。

自制、そして自制に自己陶酔する前に、衝動そのものをよくよく観察した方がいいでしょう。

ストア主義的 曙光 251


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