「やる気を出す」以前にやる気は出すものではない

「やる気を出せ!」なんてなことを言われても、やる気なんて出ません。

ところがやる気を出して欲しい方の人は、相手にそうしてもらわないと都合が悪いからこそ、やる気を出せなどと言うのでしょう。

特にうつ状態の時は、やる気なんて出ません。やる気が無いこと自体がうつ状態の代名詞のようなものですから、出るはずがないのです。

そこで考えてみたいのがやる気の出し方です。

やる気を出す方法として、たいていが体育会系の延長で根性論などを説いたり、科学的な統計を根拠として胡散臭く説得したりしています。

その前に、そのやる気は誰のためのものなのか、それが一番肝心です。

部下に働いて欲しくて「やる気を出せ」という場合は、大半が上司の都合であり、本人のためにはならないことだったりします。

根本的にアイツこと自我は、最もリスクが少なく、最もカロリー消費を抑えられる行動を選択させようとします。元が生存本能ですから仕方ありません。

アイツとしては、やる気を出して行動するよりも、リスクを最小限にすることが基本機能ですから、外からやる気を出せと言われても出しません。

だから「サボること」は自然の流れなのです。

では、他人からの押しつけではなく、自分自身でやる気がみなぎるような日常を送りたくて悶々としている場合はどうすればいいのでしょうか?

サボることはアイツの機能として自然の方向性にはなりますが、そうしている間は、身体のカロリー消費は抑えられても、エネルギーの浪費による心理的ストレスがかかってきます。

社会的に求められているであろう役割に対しての自責の念もやってきます。

そうしたチグハグな状態が続き、気持ちも体も苦しくなってしまうのならば、活き活きと充実した生活を送りたい、というのがおそらく本音です。

しかしながら、やる気は出せと言われて出るものでもなく、やる気を出そうと思っても出るものではありません。

無理にやる気を出そうとすると、概ね疲れるだけで実りのないような結果が待っています。

ということで半分アイツを騙すような形になりますが、プライミング効果を応用してみましょう。

この時を待っていました

そこで利用してみたいのが「この時を待っていました」という感覚です。

例えば中学生くらいのときであれば、F1などを見て「早く自動車を運転してみたい」と思ったりします。

で、実際に免許の取れる歳、その時期になった時には次のように思うはずです。

「この時を待っていました」

僕の場合は、早くバンド活動がしたくてたまりませんでした。早くバイトしてお金を作って音作りなんかもしたい、というようなことも思っていました。

ということで、中学生の時は「高校生のバイト生活」すら楽しみでありました。

直近の課題として、受験シーズンに「どうするんだ?」などと周りの大人に言われ、無理矢理に進路を選択などするから、受験が嫌になるのです。

これはあくまで、自分で決めた未来ではありません。外界に反応し、選択させられただけの方向性です。

だから特にそれが叶ったとしてもホッとするだけで、それほど嬉しいものではありません。

緊張と弛緩のギャップで嬉しいかのように錯覚するだけで、このタイプの喜びは穴を掘って埋めているのと同じです。

そしてよく高校受験や大学受験などが終わった後、晴れてその学校に入学した途端にやる気が無くなってしまうことがあります。

単純に目的を叶えてしまったからということになりますが、その時々で目標の学校に行くという近々の目的を持ってしまうと、毎回毎回エネルギー切れを起こしてしまいます。

途切れないやる気

では、「この時を待っていました」をさらに応用した場合はどうなるのでしょうか?

例えば、マッキンゼー・アンド・カンパニーで経験を積みながら、世界のトップコンサルタントになりたいとします。

と言ってもあまり実感が湧きそうにないので、国立大学の教授になって、民俗学を研究したいとします。もしくは本田技研工業株式会社に入って次世代のNSXを作るという夢があるとします。

その気持ちが強ければ強いほど、そして今がその未来と遠ければ遠いほど、さらに未来のビジョンがリアルであればあるほどエネルギーになります。つまりやる気です。

じゃあ、間に起こる受験などはプロセスにしかすぎなくなります。「どこの大学に行こうか?」ということにも迷いはなくなるでしょう。

自分の思い描く未来に向かっての通過点なのだから、節目節目で「この時を待っていました」と思えるはずです。といっても通過点なので軽い感覚です。だから緊張も少なくて済みます。

元の思いが強ければ、やる気が切れることはありません。

しかし、到達間近になるとやる気は切れます。だから短期的な目的や目標だと、すぐにやる気が無くなるのです。

ということで、男女間でありがちな「釣った魚に餌はやらない現象」もこれと同じ構造です。

それくらいにアイツこと自我は身勝手だということです。

「やる気を出そう」とか「やる気を出さなければならない」と思ってもやる気は出ません。

だから他人が説教したところでやる気など出るはずがないのです。

ということで活力ある生活がしたい場合は、やる気が自動発生するようにアイツの回路をチューニングすることです。

例としては未成年を例に出しましたが、どの時点にいる人でもできる方法で、特に欲が強いタイプの人の場合は、うまくいきやすい方法です。

ただ、僕のように怒りが強いタイプの人には少し工夫がいるかも知れません。

「殺し屋1」を他人事とは思えない

少し前、「殺し屋1」を読んでみたのですが、主人公のことを他人事とは思えない自分がいました(いまさらながら初めて読みました)。

それは主人公の性癖的な面ではなく、自分の世界に没頭し、相手のことを全く考えないがゆえに、相手を自分の世界に引きずり込んでいく力があるという点、そしてそれが結果的に相手を救うことになるという点です(垣原がそれを望んでいました)。

まあそれはそれで実際的にはどうなのかはわかりませんが、さらに最も他人事と思えなかった点があります。

それは自分の世界に没頭していく様子です。

その様子の描写を見て、僕がアイツ騙しをしている時と全くと言っていいほど同じような感覚だったので少し驚きました。

アイツ騙しで強力な執着による集中を呼び出した結果で少し触れていましたが、実験をしていた時の僕に相当近いものがあります。

主人公は、自分で意図せず、やる気を出そうとも思わず、凄まじいやる気(?)が無いと起こせないことを起こしています。

主人公「1」に関しては、彼を操作しているのは「ジジイ」ですが、僕は自分でその両者をやっているところが違うところです。

ということで、僕の場合は自分でその世界観から抜け出すことができるので安全ですが、胡散臭いコンサルタントやコーチによる「コーチング」は、まさに一歩間違えれば「殺し屋1」と同じような事になってしまいます。

「途切れないやる気」を自分で設定する場合にも、アイツが暴走する恐れがありますので注意が必要です。

ということで、詳しくは書きませんが、やる気は出すものではない、というお話でした。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ