賞讃と非難

戦争が不幸な結末に終わると、人々は戦争に「責任」のある者を気にかける。戦争が勝利のうちに終わると、人々は戦争の張本人を賞讃する。責任は失敗のあるところではどこでも追及される。なぜなら、失敗は必然的に意気消沈を伴うからであり、これに対しては、ただひとつの治療法が思わず知らずのうちに適用されるのである。それは、力の感情の新しい興奮である。 曙光 140 序盤

人からの賞讃や非難などは、その人の気分次第であり、動機等々何かの根拠にしてはいけないものです。

他人から賞讃を受けると喜び、非難を受けると落ち込んだり起こったりするというのが一般的ですが、そうした他人からの評価など、それが嘘や演出ではないにしろ、いちいち反応するようなものではありません。

それが本当の賞讃や非難だとしても、「その時の気分としては真実であったとしても、次のタイミングでは異なる真実が待っている」という感じになっています。

そう言えば昔読んだ高橋歩氏の本に自己啓発研修における「ホメロセメロ」というものがあったのを思い出しました。

賞讃と非難ということで順序もそのままホメロセメロですね。

ホメロセメロ

ホメロセメロ(高橋歩氏「毎日が冒険」より)

上記リンク(Google books)で本文の一部が読めるので、ぜひご参考を。

人の気分なんてコロコロ変わりますからね。

そしてホメロセメロという構造、賞讃と非難、「すごいねー」と罵声は、DV野郎の基本形であり、その極地は北九州監禁殺人の松永死刑囚といったところです。

自責の念を形成してマインドコントロール

詐欺師やDV野郎の基本形は、「すごいねー」という言葉を連呼して、気分を高揚させ、様々なことを聞き出してから、「でもね…」とネガティブなことを言うのを待ち、それを覚えておいて、あとからそれで脅していったりという感じです。

昨日まですごく仲良くしていたかと思えば、急に不機嫌な態度をとったりして、動揺させるのが上手かったりします。

「この人と会えば素敵な気分になれる」という状態を作った上で、急に豹変するのです。

そうすれば、「私が何か気に障ることをしたのかな?」と思います。

そして「こんないい人なのに、なんだか悪いなぁ」と思わせていくのです。

その上で、聞き出しておいたネガティブ部分をつついていくのです。

それで、相手に自責の念を形成させて、マインドコントロールしていく、それが大体の詐欺商法、催眠商法の王道です。

催眠商法 P(信者の値打ち)もおそらくそんな感じでしょう。

最終的には「お兄ちゃんの役に立ってあげられなくてごめん」というマインドを作っていくと思います。

「ううん。大丈夫、分割払いもできるから」

というところに持っていくのでしょう。

その上で拒むと「そりゃあそんなんだったら、孫もグレるわ!ふらふらふらふらしてんだからさぁ!」

「人様に世話になりっぱなしで平気な人間に育てられたらそうなるに決まってるよ!」

みたいな感じになっていくでしょう。

「この人は本当はこんな人じゃないんだ。私が悪いからこんな風に彼を苦しめているんだ」

というマインドになってしまいます。典型的なDV被害者のマインドです。

小心者

社会にもあふれる自責の構造

といってもこれと近いような構造は社会にたくさん溢れています。

「自分が休むと上司や仲間が苦しむ」

という感じです。

ただ、僕から言わせると、それは会社の責任、社長や株主の責任であって、従業員の責任ではありません。

で、確かに納品なんかが遅れてお得意さんにも迷惑がかかったとしましょう。

でもそれは会社の責任なのです。

短期的に人手が足りなければ、派遣会社を使うか役員が手を貸せばいいのです。従業員の責任ではありません。

でも、「仲間に悪い」と思って、無理に仕事を続けている人はたくさんいます。それはその人の責任ではないにも関わらずです。

その人の気分はその人の気分

どうあれ人の状態を自分の気分の条件にしてはいけないのです。

その人の気分はその人の気分、自分の責任でもなんでもありません。もちろん自分の気分については、他の誰に責任があるわけでもありません。

ところが、世間では「共感」というものが大事だとされています。

ここで考えてみたいのが、「共感」の先にあるものです。

共感して相手の状態を把握するというところまででストップすればそれで問題ありません。

しかしその先に「だから」をつけてしまうとおかしくなるのです。

「あなたの気持ちはわかった」というところまでなら大丈夫ですが、「だから○○してあげる」というのが余計なのです。

オレオレ詐欺にありがちな

「交通事故の賠償金を払わないと大変なことになるんだ」

というメッセージを聞いたとして、

「大変になることはわかった。お前が今焦っていることもわかった。で、それが何だ?」

と思うのが正しいのです。

「己のケツくらい己で拭け」

ということです。

賞讃と非難 曙光 140

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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