多くの人間はしかじかの行為をする最上の権利を持つ。だが彼らがそのために自己弁護すると、われわれはもはやそれを信じない。― そして見当違いをする。 曙光 399
自己弁護することにはさまざま弊害があります。それが正当そうに見えるようなことであっても、どこかに自己欺瞞があります。
自己弁護とは、もちろん自分をかばう目的で言い訳がましく弁護することです。概ねプライドを守るためという感じで、つまりは自尊心の保持のためになされます。
根本的に自己弁護をするということは自己弁護の動機があるということです。その動機の裏には、何かしらの欺き要素を感じているということになります。
自己弁護の必要性
本当に正当だと思っているのであれば、自己弁護の必要性すらありません。自己弁護を必要とするのは、どこかしら疚しさや欺きの要素があるという感じになります。
自己弁護の奥には自己正当化としての心の動きがあります。
他人に嘘をつけたとしても、自分自身には嘘をつくことはできません。自分には嘘をつけないので疚しさがどこかに残るはずですが、それでも実質的な利害関係の調整であったり、プライドを保つためであったりと、外向きには嘘をついてしまうという感じになります。
明らかな嘘というわけではないかもしれませんが、本心の本音というわけでもないので、若干の欺き要素を含んでいるということになるでしょう。
構造として自己弁護的であるが疚しさや欺きがない場合
といっても、弁護自体に関して言えば、そうした要素のない自己弁護のようなものがあります。構造として自己弁護的でありつつも、疚しさや欺きがない場合です。
それは、相手の持っている概念に合わせて話すときです。自分では疚しいとすら思っていなくても、相手はその概念に偏見を持っている場合に説明する時、自分を守ろうとか、相手を欺こうという意図無く構造的に自己弁護的に見えてしまうという場合です。
相手の持つ視点、いわば偏見によって誤解が生まれてしまうのを避けるために言葉の表現を変える時、本来は自己弁護の意図がなくとも客観的にはそう見えてしまうことがある、という感じです。
あくまで誤解されないようにという目的をもってなされる行動が自己弁護のように見えてしまうといった感じであり、その場合には自己欺瞞もないので堂々と話をしているはずです。
意識した時点で壊れる
さて、抽象的な体感を感じている時、それを具体化してしまうと体感が壊れてしまいます。
もっと一般的に言うと、「今幸せだなぁ」と感じている時に、理由として「○○だから」とラベリングしていくことで、それが壊れてしまうという感じです。
「再現可能で汎用的な法則性」を意識した時点で壊れるのです。
普段とは違った体感がやってきた時、「これをまた体感したいなぁ」と考えます。そこで、それを具体化していけばいくほど、その体感の理論づけを行えば行うほど、体感も再現可能性も壊れていきます。
先日「叶うはよし、叶いたがるは悪しし」なんてなことを書きましたが、まさにそのような感じです。
「なる」なら「なればいい」
「なる」なら「なればいい」のです。
「なる」のに「なりたがる」から「なることができない」のです。
で、なるにあたって、最上の状態は、全ての煩いがない状態です。
でも普通「なる」というと、「サッカー選手になる」とか「消防士になる」など、そうした「具体的なもの」になろうとします。
そして仮に具体的なところで言ったとしても、サッカー選手はサッカー選手になろうとしているでしょうか?なろうとはしていません。だからサッカー選手なのです。
既にサッカー選手なのであれば「サッカー選手になろう」とはしません。
練習というものは必要なのかもしれませんが、おそらく努力して練習をしようとは思っていないはずです。
「意識と身体が勝手に動いてしまう」
という感じでしょう。
「努力して踏ん張るぞ」と、感情に蓋をしても、それは一時しのぎにしかならず、結果続きません。
「なろうと思ったら努力しろ!」
というのは根本から間違いなのです。
だいたいそういうことを言う人は大成していない人です。微妙なポジションにいる人ばかりでしょう。
弓と禅
そういう感じは、オイゲン・ヘリゲル(Eugen Herrigel)氏の「弓と禅」がすごくわかりやすいと思います。
ドイツの近代哲学者であるオイゲン・ヘリゲル氏は、日本にやってきて、哲学の講義をしたりしていましたが、ある時、弓術の師匠阿波研造氏と出会いました。
日本の真髄を知りたい、という感じで興味本位だったのですが、師匠は目隠し状態のまま矢を二本放ち、一本目は的の真ん中、二本目は一本目の矢を2つに裂くという感じを見せつけられました。
西洋哲学の思考方法や発想の範疇を超えています。
なぜそんな事ができるのか理解できなかった彼は、師匠にどういうことかを聞いてみました。
すると師匠に「それが射るのです」と言われ、さらに理解に苦しんだオイゲン・ヘリゲル氏ですが、さすがは哲学者です「理屈を超えた理屈があるのかも知れない」という知的探究心があったのかどうかはわかりませんが、迷わずに師匠のもとに入門します。
そして、結果的に五段の免状をもらうほどにまでなりました。
「それが射るのです」がストンと落ちれば、もう語ることはありません。
なかなかいい本ですよ。
自己弁護する 曙光 399
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