絆という大きな束縛

絆という大きな束縛を解き放つこと、それが苦しみから脱することのポイントとなります。

サンユッタ・ニカーヤ第Ⅳ篇第一章第四節、第五節の「わな」をヒントに、大きな束縛について触れていきましょう。

本日で、養子のうさぎが亡くなって二年になります(うさぎの死 さようならわが息子よ)。昨年は、「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみを書いてみましたが、今年は愛別離苦の元となる絆という大きな束縛について触れていきます。

「あなたは悪魔のきずな(わな)で縛られています。―天界のきずなと人間のきずなとがありますが…。あなたは悪魔の縛めにしばられています。修行者よ。わたしはあなたに解脱されることはないであろう」

「わたしは悪魔のきずなから解き放たれている。―天界のきずなでも人間のきずなでも…。わたしは悪魔の縛めから解き放たれています。そなたは打ち負かされたのだ。破滅をなす者よ」

(サンユッタ・ニカーヤ第Ⅳ篇第一章第四節  一部抜粋「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ」中村元訳)

「天界のきずなであろうとも、人間のきずなであろうとも、あらゆるきずなに、あなたは縛られている。あなたは大きな束縛で縛られている。修行者よ。あなたはわたしから解き放たれることはないであろう」

「天界のきずなであろうとも、人間のきずなであろうとも、わたしはあらゆるきずなから解き放たれている。わたしは大きな束縛から解き放たれている。そなたは打ち負かされたのだ。破滅をもたらす者よ」

(サンユッタ・ニカーヤ第Ⅳ篇第一章第五節  一部抜粋「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ」中村元訳)

変わりない経験と束縛

未来が見えない時にも望みが無くなったりしますが、未来が見えてしまうことも絶望をもたらしたりします。

誰かへの愛情は、純粋な慈しみでもありながら、一方で己を縛るものとなりえます。

介護生活や看病を筆頭に、繰り返すような毎日の中、未来が見えてしまうという構造は、一方で愛ゆえに己を縛り、「原因は相手であり、愛しきものに縛られている」というような残酷さを生み出します。

「今日をやり過ごしたとしても明日もまた同じような経験をするだけ」というような予測が立つ中、それを放棄することは慈悲とは逆行するようで、良心の咎めが来るという八方塞がりがやってきたりもします。

埋没費用効果のように、「それまでの間の奮闘した経験を台無しにしたくない」というブレーキもかかり、そしてその記憶は、死別などの後にも大きな束縛として心を縛っていきます。

我がこととして考えてみても、何かをかわいいと思った経験すら、自分が消えてなくなれば、その経験は何の意味もなくなるということになりますし、誰かとの楽しい思い出も、いつかは消えて無くなるということが決まっていて、それをどう変更することもできませんし、残しておいたからと言って、この心無き後、それがどう意味があるのかということを思ったりもします。

「今」しかない現実の中で、なるべく苦しみを得ないようにということになりますが、だからといって記憶がどこかにいってくれるというわけでもありません。

同じような毎日が苦しいからといって「己を縛るものとなりうる相手」から離れようとも、離れた記憶、捨てた記憶は残っていきます。なので根本解決にはなりません。

そんな中、離れずにいたところで、どうせ同じような微妙な毎日を過ごすことはどこか苦しく、また、多少の気晴らしに外に出ようと思っても、外にいるときにすらその対象のことに思いを馳せてしまい気掛かりが残るという構造になっています。

「良くなるのか、良くならないのか…、良くなったらならば多少気が晴れるのに」という場合も、何かしらコントロールしたいという焦燥に駆り立てられますし、老衰や病の末期症状などで良くなりえない相手ならば、どうすることもできません。

そうなると苦しさからの怒りによって、相手を消してしまいたいということが想起されてしまうこともあります。そして、そんな自分の記憶も消したいということで、介護疲れから無理心中を図るということが起こったりもします。

変わりない経験への予測と記憶からの束縛によって、もうどうしようもない逼塞感に苛まれてしまうことがあります。

別に真新しい経験をしたいというようなわけでなくとも、「せめて自由を与え、楽にして欲しい」という感じになっていってしまいます。

自由を奪われているという感覚

それが意識の上でわかっていることなのか、自分でも気づいていないようなところにあるものなのかはバラバラですが、つまりこうした束縛とは、「自由を奪われている」という感覚がその根幹になります。

何かしら犠牲感があるのならば、どこかしら「自由を求める怒り」というものが生じているということになるでしょう。

相手の世界と自分の世界は同一ではありませんし、この心で受け取れるものは、この心が六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)から五蘊で捉えるものしかありません。

哲学的に考えるとそうした形で、あくまでこの世界を構成しているのは五蘊であり、何かしらの執著によりそれを自分の思ったままには受け取れないということが苦しみの元凶になります。

五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)五種の執著の素因は苦しみをもたらす

世間では欲が生じればそれを満たし、怒りが生じればそれを解消するように外の世界に働きかけるという方法論がよく説かれています。

しかし、根本問題としては、何かしら取るに足らないようなもの、それを叶えても仕方がないようなことに対して少なからず固執し、自爆しているという構造の方です。

このあたりは哲学テーマ等をご参照いただくとして、詳細については割愛しておきます。

そうしたことを明らかに観るというのがいいですが、目の前に現実があり、心が騒いでしまうのならば、少し視点を変えて当座の意識を静めるに越したことはありません。

日常の視点

そんな時には、多少マクロ的視点で良いので理から現実を観察すると良いでしょう。

何かしら自由が拘束されているという実感がある場合、ピンチをチャンスに変えるように、真面目くさらずに柔軟な発想を持つことが賢明です。

介護問題に関していうと、介護されている側も「自分のせいで相手は何かを犠牲にし、苦しんでいる」ということで苦しんでいる場合があります。愛ゆえの苦しみです。

そこで命令されたわけでもないものの、愛ゆえに相手に束縛されていると感じながら双方が真面目に過ごすというのは変な鬱屈感を生み出していきます。

条件の限定がもたらすチャンス

であれば、そんな状況を「条件の限定によるお題」として捉え、「趣味がドライブで、そんな趣味に出かけられないということが苦しい」ということであれば、読書に勤しむという良い機会だと捉えることができます。

どうせ24時間ずっと一緒にいるわけでもないと思うので、本くらいは買いに行けますし、ネットで注文してもよいわけです。インターネットで注文したことがないというのであれば、そうしたことを実行してみるチャンスということになりますし、わけがわからないということであれば、知っていそうな人に聞いてみるということで、対人コミュニケーションのチャンスにもなります。

「自分のやりたいことをやろう」というのはいいですが、やりたいことというものは、自分が今すぐに思いつくものとか長年の趣味というものに限定されるわけではありません。

実は幼少期の頃にやりかけてやめたこととか、なんとなく始めてみたいものの時間がなくて諦めたことなどがたくさんあるはずです。

ある種の環境条件の限定が、そうした無意識の奥底に眠っている何かを呼び起こしてくれるかもしれません。

自由がありすぎると、誘惑が多くて集中できないとか、代替案がありすぎて選択に迷うということがあります。

それを限定によって集中力を獲得できてしまうというのは、意識の全体構造を理から観察すれば見えてきます。

という感じでチャンスにすることもできます。

Category:miscellaneous notes 雑記

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