第1600回投稿記念

これで1600記事目になります。ブログ創設から1600回目の投稿ということで「第1600回投稿記念」です。

前回の第1500回投稿記念は、2019年6月1日で、前回からの100記事は、4ヶ月ちょっとかけて投稿したという感じです。旅行記を細分化して連投したことや「笑う月」を開始したことで後半にはスピードが高まりましたが、前半はかなり緩やかでした。

さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。

また、contactからご連絡いただいた方、投稿にコメントをいただいた方、ありがとうございます。毎度のことながらたくさんの気づきがありました。

それではおなじみのアクセス解析から見るアクセス状況から投稿記念の回を進めていきましょう。

アクセス状況

前回の2019年6月1日から2019年10月10日までの間のユーザーさんの数は、108,861名であり、前期間(同一日数)は、83,451名なので、比較すると30.45%の増加という感じのようでした。

男女比は男性48.31%、女性51.69%と若干女性ユーザーさんが多いようです。

日本以外からのアクセスは、やはりアメリカがダントツですが、それ以外として今回は、カナダ、オーストラリア、イギリスと英語圏に偏る感じになりました。

またご連絡やコメントについては、スパムフィルタの影響で発見が遅れたり、確認することなく消えてしまったものもあるかと思いますがご容赦ください。

ハブページもあるものの、投稿自体は1600記事となり、画像の詳細ページも1900ページを超えているので、相当のサイトボリュームとなりました。

サイト内検索

さて、毎度おなじみサイト内検索です。今回は、1584ワードでした。

まずは検索回数が多かったものをご紹介しましょう。

  • 同調
  • 読書
  • 洗脳
  • ヴィパッサナー
  • ニート
  • 関係ない
  • 真理
  • やる気
  • 覚醒

次に少々マニアックなものをご紹介します。

  • ヘッセ
  • アトキンソン
  • シュライエルマッハー
  • 反出生主義
  • エノコログサ
  • アグラオネマ
  • フットインザドア
  • 誤前提暗示
  • 黒い羊
  • 各方力

それと毎度のごとくなぜか新世紀エヴァンゲリオン系のワードが結構ありました。そして毎度のことながら糞袋がありました。

さて、それでは投稿記念の回としていつもと違った感じで進めていきましょう。

最も美しいものは慈しみ

諸説あると思いますが、美しいという字自体が、仲間を守る大きい羊の勇敢さを示すとか何とかということなので、もともと美意識というものは仲間への思いというものが主題になっているというのは粋なものです。

その仲間の属性がより利害のないものであればあるほどと言った感じで純化されていった先、それを考えるときっと友情という表現が適しているということになりましょう。

すなわち家族であれば本能的に守りたいというプログラムがありそうなものですが、友だちであればそうした遺伝レベルでの都合という属性はなくなるのでより美しいという感じになります。

と考えれば、この世で最も美しいものは友情ということになります。ちなみにもともと「慈しみ」を示すパーリ語の「mettā(メッタ―)」は、友愛というニュアンスが強く、「親だから」とか「子だから」というような条件無く、相手に幸せでいて欲しいというような思いを意味し、より厳密には全ての生き物に対する友愛の思いを意味します。

人間の友だちであれば、まだ同種という限定が入っていますが、種族を超えればそうした我の都合の要素が排除されていくのでより美しさは純化されていきます。

友情の美しさはドラえもんの長編で証明済みという感じもしますが、手塚治虫氏の荒野の七ひきや未来人カオスなどでもそのあり方の理想が描かれていたりします。

都合が悪くなれば逃げる人

「現実的に生きる=唯物論」みたいな解釈をしている人たちをよく観察すると、単に「リアルに稼いで豪遊するような感じが成功だ」的に思っているだけに見えます。そして消費する形で人と接していているだけで、本質的には友情に飢えているような感じがします。つまり、友達がいないような感じです。

おそらくそこには、かつて真の友情を欲したものの、不安定な人の意識に辟易し、人間不信に陥ったという経緯があるのでしょう。そして、不安定な人を信頼せず、安定的な金銭を軸にして対人関係までも消費の延長とすることで安定を図り「私は頭がいい」という感じでごまかしているようにしか見えません。

行動を約束することはできても感情を約束することはできない、というように、お金で行動を買えても友情を買うことはできません。

そしてその美しさを味わうこともできないということになります。

もちろん意識は不安定であり、関係も不動のものということはありませんが、「都合が悪くなれば逃げる人」が感じ得ないような経験が、やがてすべての生き物に対する慈悲を育てるということになります。そしてそれが結果安らぎにつながります。

一人でもそこにいるかどうか

そういえば10代の頃、進学等々で高校の同級生たちが離れ離れになったくらいの時、出演したライブでお客がガラガラだったことがあります。

その時に足を運んでくれた人たち、その人達とは現役で友だちです。

そして僕も彼らが各分野で「まだ芽の出ない状態」だった時、多少遠方でも足を運んだりしました。

「友人が足を運んだ程度で何になるのか?」

ということにもなりそうですが、少なからず僕は10代当時の情けないような心許なさを彼らに支えてもらった時の気持ちの動きを覚えています。「一人でもそこにいるかどうか」ということがどれほど人の気持ちを変えるかを身にしみて経験しているからこそという感じです。

常に支えねばならないほど弱くはないとしても、それでもまあ少しは気持ちが楽になるだろうということで、よほど遠方でない限り駆けつけることにしていました。

今ではそうした必要のないほどに彼らも大成したりしています。

でも、もしもまたそんな時があったなら、いつでも駆けつける気持ちでいます。

という彼らは、遠方に住んでいてもたまに電話をかけてきては「今から行くわ」などといいながら数時間後にやってきたりします。

それでどこに行くのかといえば公園か、いいところ銭湯くらいです。

金銭面で考えればお互いにある程度いくらでもかけることができるはずですが、よほど季節が酷暑や極寒でない限り結局のところ10代の時と変わりないような感じになっています。

まあ賛否はあるかもしれませんが、彼らは家族がいても一人でやってきて、結局朝まで公園で話すのが通例という感じです。

考えてみればそうした深い仲の人たちとは、飲み屋に行ったことがないかもしれません。集団として行ったことはあっても、二人で行くということはかつて一度もないような気がします。

つまり、酔いなど必要がない仲です。

様々な生き物と接する時の気持ちについても、もちろんそれはインコたちや養子のうさぎから学んだ部分も大きいですが、友愛・慈悲に関する基礎部分をもたらしてくれたのは彼らであることは間違いないでしょう。

コミュニティやコミュニケーション

西洋的な発想の分析などで、よく「人が生きていく上で必須だ」と取り扱われるのがコミュニティやコミュニケーションといった類です。

「そんなに必須か?」と思うこともありますが、まあ社会生活という意味では必要となるものになるのでしょう。

という感じになっているので、やたらに世間で「コミュニティ」や「コミュニケーション」を求める感じがして、変な感じがしています。

本質的に社会にとってあったほうがいいものは「下の世話をしてくれるレベルのコミュニティ」であり、単に群れて暇をつぶしたり、同調者と愚痴を言い合うことではないはずですが、言葉の定義が若干曖昧なのでそうした解釈で事が進んでいるような気がしたりします。

理想的な地域コミュニティ

例えば、本来理想的な地域コミュニティとは、向かいに住んでいた天涯孤独の「僕たち兄弟にとっての第三のおばあちゃん」が高齢となり弱り果てた時、弟がそのおばあちゃんの車椅子を押したりしていたような、そうしたレベルのものであるはずです。

そうした無償の行動が起こった背景には、幼少期に遊んでもらったとか、我が家が留守の時におばあちゃんの家に上げてもらって話をしたとか、そうした蓄積があったからということになりましょう。

しかしながら、市民新聞で「助け合いましょう」と義務教育なアナウンスをすれば事足りるかのような様子になっています。それは経営学を学んでも経営ができるかどうかはわからないのと同じように、机上の空論に近いような空気感が漂います。

暇な人達が暇つぶしのために何かの大義名分を用いて群れるようなコミュニティも、結局「老後の下の世話レベル」の関係性を築けるとは思えません。まあ下の世話は極端ですが、先の天涯孤独のおばあちゃんと弟のような感じくらいが理想的です。

それと同じように「コミュニケーションを大切に」とは言ってみても、「何とか『活』」と表現されるような全てのように、「とりあえず少しは触れて、合わなければ次」というような現状の自分とのマッチングという感覚だと、人格の向上も俗に言う絆も生まれ得ないでしょう。

結果、ただ構って欲しいというようなコミュニケーションへの飢えが生まれ、その意識のむさ苦しさからコミュニケーションが破綻するか、疎外感から気が狂れていくのが関の山です。

言葉の美しさ

言葉を放つことは、気持ちを放つという感じなので、話すことで気分が晴れるということに繋がるという感覚は、勤め人時代によく経験しましたが、その時に出る言葉の表現は、自分の無意識にも届いてしまうという部分があります。

であるのならばできるだけ美しい言葉のほうが良いような気がしますし、そうあろうとするだけで物事の解釈、モノの見え方自体が変化することもあります。

そういえば、ユーザーさんの女性比率に伴ってということなのか、ご連絡をいただく方の女性率が高まりました。

一言を添えていただくことがあり、その中のフレーズに川端康成氏の雪国のような美しさを感じるときがあります。

特に卓越した言語表現であるというわけではありませんが、文体から柔肌を感じることができる、という感じです。

そうしたひとことは、女子特有の手紙の交換という文化の中で培われたものなのか、その美しさは一朝一夕で叶うものではないというような感慨深さを感じることがあります。

それでは引き続きご愛読くださいませ。


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Category:miscellaneous notes 雑記

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