人は他人と比較し、自分の置かれた状況に一喜一憂する生き物です。そんなことばっかりして一生を終える生き物といってもいいでしょう。「生きるって悲しいよね」とは、そのことです。本来は善悪の判断だけを教えておけば事足りる学校で、勝ち負けまで教わってしまった悲劇なのです。
「運動会で手をつないでゴールイン」が叩かれた時がありました。
確かにトンチンカンといえばトンチンカンですが、別に「運動」をする会なのでいいといえばいいということになってしまいます。
「別にやりたいようにしてください」これが僕の意見です。
問題なのは「競争」ということをしないと人は成長しないと思い込んでいることです。
スポーツでも勉強でも、競争させて優劣を決める、まではいいですが、それで本当に人生を左右させてしまうことが問題なのではないでしょうか。
所詮、スポーツは遊びです。テストはクイズと変わりありません。
そこで楽しさを見出したり、健康になったり、頭が良くなったりするのはいいですが、それを根拠に、人を分類してしまうことに問題があります。
結局、働き出す時の「出身大学による足切り」とかも、時間とコストと人事部の要員の問題で、「猫も杓子も観てられないよ」ということであって、それが絶対的な基準ではないですからね。
それを本当に基準にしている場合は、優越感とか仲間意識とかであって、恐怖心にとらわれて、自分の眼力のなさを暴露しているようなものです。「オレ、勝ち組」と、いいように見えますが、悲劇中の悲劇です。
知り合いに農業を営んでいる人がいます。
植物の観察が好きで、研究するのが大好きだそうです。
今でも一冊数万円するような本を取り寄せて勉強されているそうです。
テストでいい点が欲しくて勉強されているわけではありません。
本心は知りませんが、「隣の農家に勝ちたくて」という気持ちで研究されているわけではないでしょう。
別にもう、勝ち負けとかいいじゃないですか、なるべくそんな世界からは足を洗うことです。興奮や、たまの喜びはあるかもしれませんが、繰り返しているように、そんなものは穴を掘って埋めているだけの行為です。
ただただやりたいことを、ひとりででもみんなとでも、楽しくやればいいのではないでしょうか。
改バージョン⇒生きるって悲しい 改
最終更新日:
まだ全体の1割程度しか記事を読めていないのですが、内容深く、学びが多く、とても勉強になります。
弟子を募集しているのであればして頂きたいくらいです。
まずは全ての文章に目を通して再度コメントをさせて頂きたいと思います。
コメントどうもありがとうございます。
何かしらお役に立てたようで良かったです。
のほほんと投稿したものもたくさんありますが、また何かありましたらコメントをお寄せいただければと思います。
はい!
ご返信ありがとうございます。
私の結婚しようと思っている相手が宗教(法華経)に熱心な方で、私自身非常に戸惑っており、色々と調べていたところ、このページに辿り着きました。
昨日、初めて1回目の話し合いをしましたが、お互い譲らず、、、という形で、また記事を参考にさせて頂き、疑問点が湧いてきたら質問させて頂こうと思っております。
こちらの話ばかりですみません。
宗教関連の教義については論理の否定から入ってもいいですが、相手の観念を上書きするほどのレベル、かつ、一気にいかないと抵抗が生まれるだけになってしまうことがよくあります。
そうした宗教への熱心さ、宗教に関する観念への執著も、実は別のところに要因があることがよくあります。
体感領域、感情的な面で何かしら手放したくないという思いがある事が多く、そうしたものすらその人にとっては現段階での最適であるという状態になっていますので安心と代替手段の発見、そして執著の対象の論理的不完全性の気付きなどにより、軋轢は無くなることがあります。
ただ、観念と観念、信念と信念のぶつかり合いという構造になっては平行線となり、同時に相手に対する観念の押しつけになってしまいます。
確認できる事実だけを頼りに、執著の対象の不完全性を自発的に気づいてもらうこと、そして観念を含めて「他に依存しない独立した安心」を得てもらうということが良いと思います。
また何かありましたら何なりとコメントをどうぞ。
読んでいて涙が出そうになりました。
きっと今の私にbossuさん程の知識があれば、話し合いができるんだと思いますが、私には倫理の否定をできるほど知識がなく、自分の小ささに落ち込んでいると同時に、bossuさんのような方にこうやって話を聞いてもらい、具体的な説明をして頂けるのはとても嬉しいです。
ありがとうございます。
彼女は
・法華経信者であること
・実家がお寺で父親(2代目)がその宗教の主であること
・日蓮が説いた法華経の教え以外は邪道であると考えていること
・神社への参拝、クリスマスやバレンタインなどのイベント、他宗教者との結婚はできないこと
・火葬後の骨拾いや墓を持たないこと(これに関しては信者が集まらない為、方向性を変えようとしているということは言っていました。)
・週に1回実家であるお寺に信者同士で集まって何かしらの活動をしていること
・本人の部屋(一人暮らし)に小さな仏壇?のようなものがあり、毎日それにお祈りをしていること。※これに関しては、他を退けて圧倒的に優先しています。
・会話をしているとすぐに父親の話が出てくること
・結婚するなら同じ宗教にならないといけないこと
・何故自分がこの宗教(何故か彼女は宗教じゃない、信仰だと否定してきます)をしているのか何度も何度も考え、この家に生まれたことに運命や宿命を感じていて、正しい教えの通りに生きていきたいし、皆に伝えなければいけないから修行していると言っていること
・母親は元々無宗教だったこと
・身内で宗教を辞めた人がいるが、その人は破門になっていること
・双方話合った上で、私が入信する可能性は0%じゃないかもしれないが、彼女が無宗教になる可能性は1%もないのか?と聞いたところ、0%と答えたこと
このような感じです。
正直一般的に見ても聞いても、かなりどっぷり浸かっており、重篤だと思います。
というか、幼い頃からそうやって育ってきているので、彼女にとってはそれが当たり前であり、それ以外は考えられないのだと思います。
ただ私はお付き合いしてしばらくたってからそのことを知ってしまい、彼女のことが大好きなのは変わらず、できることなら生涯を共にしたいと考えています。
ただのお付き合いだけであれば、信仰や宗教は全く構わないと思っています。
ですが、結婚は双方の家庭同士のことですし、私がそこに入信して、家族に迷惑をかけれないと思っています。(特に納骨や墓に関してです)
とは言え、結婚を諦めたいのですが、諦めきれません。
という本当に我儘な考えです。
彼女は毎週必ず父親や信者と集まって話をしている為、私との話をしてもまた何ともない状態に戻ってしまうのではないかと思っています。
むしろbossuさんが仰る通り、吹き込まれて警戒心が強くなってしまうかもしれません。
信者は200~300人程度の小さい新興宗教のようです。
取り留めもない文章で申し訳ありません。
彼女と一緒になりたいです。
ですが、私がその宗教にハマってしまうのではないかという恐怖心以上に、彼女も失うものがあるのではないか(仮に無宗教になって私と結婚できたとしても、破門や家族との不仲など)と恐れているのでしょうか。
勿論二人で考えていかないことではありますが、話し相手が既に話にならないので、物凄く不躾なお願いだと承知しておりますが、何かしらアドバイスを頂けないでしょうか。
お忙しい中、稚拙なお願いを本当にすみません。
基本的に知識はあってもなくても大丈夫だと思いますよ。あった方が相手の意図を汲み取りやすく、また、相手に伝えやすいという面はありますが、重要なのは、そうした様々な概念を飛び越えて普遍性のある一般的な論理的整合性の方ですから、理性を大切にしてください。
宗教の空間にいる人は、使用言語等が宗教用語ばかりだったりしますが、本当に普遍性のある理であれば、一般的な語でも説明できるはずですし、相手の用語や概念の空間に合わせすぎると、意識を持っていかれやすくなります。
なので、空間に飲まれないための工夫が望ましいでと思います。相手が専門用語を使ってきても一般的な語に変換して、「それはつまりこういうことでいいですか?」という感じで確認していくと相手の空間に飲まれなくなります。
さて、宗教化されているものは、全てカルト要素があると思っています。しかしそれが反社会的な活動をしない限り、大して問題にはされません。ただ、やはり社会関係性に影響を与え、誰かの意志を制限するものとなるため弊害があると思っています。
なお、追記でご連絡いただいた内容にある分派前の教団に関しては、地元に本山があるので、ある程度は知っています。
排他的傾向があるので、個人的趣味を超えて社会に絡んでくるとトラブルが起こりやすいと思います。
僕の場合はまだ十代だったので少し環境は異なり、事は浅いですが、同じような経験がありますので、お気持ちは察します。
結婚というものは、二者間の関係性ではなく、その二者をその周りがどう捉えるか、という変化によって、二者間における新しい経験を創造するようなものです。つまり社会関係性の領域での第三者たちの取り扱いの変更とその結果を二者が享受するというようなものです。
ただ、相手への「意志の強制」がある中においては、婚姻後、子に対する教育で必ずトラブルが起こります。そうした点を含めて、相手がどのような思いを持っているのかというところが重要だと思います。
今回のお話においては、相手が自分たちの思想信条に合わせなさいということで意志の強制をしているという部分があります。
好きであるという思いと、意志の強制や社会関係性の柵という構造との間で葛藤が生まれるのは無理もありません。
理屈で言えば、相手が、現在の環境を捨てて、二人で新しい世界を見に行こうという意図を持てたならば、二人で歩んでいくことができます。
しかし、旧来から宗教という空間は、その教義や信仰と言われるものの類と、家族関係や職業、所属コミニュティを関連させており、一筋縄ではいきません。
おっしゃるように、説得してもまたその空間に戻れば、俗に言う絆のようなもの、仲間の中にいるという安心の体感に引き寄せられ、「仲間に仲間と認めてもらうために」ということで宗教の空間に戻ってしまいます。
特に家族が教団の教祖家系なのであれば、それまでの人生の経験の記憶といったアイデンティティにもかかわるためなおさら影響が強いと思います。
そして幼少期からそうした空間にいるということは、ご両親のことをご両親であると疑うことがないレベルで教義を当たり前のことだと思っている可能性が高いはずです。
おっしゃるような「破門や家族との不仲」がかなりの恐怖心を呼び起こすものとなっているはずです。
教義への執著というようなものよりも、そうした面の方が大きいと思いますので、論理的な説得によって論破し、相手が納得したとしても、「わかっているけどやめられない」という感じになってしまうでしょう。
でも、やっぱりその方のことが好きなんですよね。
そうであるならば、思いを膨らませた上で、思いっきりぶつかったほうが良いと思いますよ。
相手に自分を変えられたくないように、相手も自分を変えられたくないと思っているはずです。
しかし、どちらかがどちらかに合わせるのではなく、二人で新しい景色を見に行こうと思えたなら、遠くの地ででも二人で歩んでいけるはずです。
しかし、それが一方的な思いで、相手にその気持ちがないのであれば、その事実を明らかに見て、理性により自分の内側にある相手への執著の方と対峙しなければなりません。
お気持ちは痛いほど理解するところですが、究極的には「他に依存することなく」ということになります。
具体的なアドバイスをありがとうございます。
関係性を断って、何もかも諦めたい、でも一緒になりたい、その思いが一日中頭の中でグルグル回ります。
諦めようという思いが強くなりがちですが、bossuさんのアドバイスを何度も何度も読み返し、ちゃんと怖がらずにぶつかろうと思っています。
困った時に言えるように、文章をこのまま暗記しようと思います。
恐らくこの数週間で大まかな方向性は決まるのではないかなと思います。
後悔しないように頑張ります。
また色々と教えてください。ありがとうございます。
変な感じですが、思考がたくさんループしてしまう時は、現状を書き出して様々な方向の論理上の限界を確認していくと、「この点はこれ以上どうしようもない」という面が見えたり、不足している情報、確認したい情報などが浮き彫りになったります。
どうしても譲れない点を明確にしていれば、それらはさらに明確になりますし、情報の収集、相手への確認などを実行作業として期限と共に予定として置いておけば、あまり思考に振り回されなくなります。
そうなると相手への思いの部分だけを大切にしながら、あまり考えずに勢いをつけて動けるような感じになると思います。
構造と自分の意図が明確になると、「感覚」としては相手への好意と慈しみだけが残り、恐怖心は低減し、勢いをつけて突き進むことができたりします。
また何かありましたら何なりとご連絡ください。
bossuさん、本当にありがとうございます。
『お釈迦様が説いている教えを正しく伝えているのが日蓮。
そして、それは文書として残っている。
あなたは織田信長が存在したというような歴史でさえも否定するのか?
文書として残っているものをそのまま正しく解釈しているのが日蓮だ。
だからこれを信仰するし、他の宗派は日蓮が正しいことを言ってるのを分かっているが、正しいことを認めると、商売として成立しないので、反発している。』
物凄い洗脳されっぷりですよね、、、。
ここを論破したいです。
私が言ってきたことは以下です。
①お釈迦様の存在や残してきたもの?自体が他教には無く。
正しいか正しく無いかの議論の対象になっている。つまり、不完全なもの。
②仏教を信仰することはまぁ悪いとは思わない。
ただし、日蓮以外は正しく無いと言うには根拠が欠けている。
つまり普遍性のない真実でない以上は、正しいと証明することができない。
また、自分の心の中で何が正しいか信じるのは構わない。
信仰全てが悪いとも言わないが、他を押し除けてもそれを第一優先とする理由や、他人にそれを伝えて布教しようとすること、信者同士で集まることが到底理解できない。
※デート中でも、途中でお祈りに帰ったりします。
彼女は私のことも親のことも大事だと言って泣き出しました。
そこで話は終わりましたが、彼女の言ってることは言葉や文字を変わっても、終始、日蓮が正しい事についてでした。
一筋縄ではいきませんね、、、。
今日が週に1回の実家に帰る日です。また帰ってきたら洗脳度合いが強くなっていると思います。
なんとか差し込める方法ないでしょうか。
お忙しい中いつもアドバイスをありがとうございます。
冒頭のお話に関して論理として反駁をするのは容易ですが、まあ一番良いのは、あるものの論理的な不完全性を直接示すよりも、普遍性のある理を示すことにより、自身で自発的に気づいてもらうということだと思います。
その方が凝り固まった信念に対する感情的な抵抗も少ないですし、「語気を強めて言った手前、意見を翻せないなぁ」という対外的なコミュニケーションにおける感情の抵抗も減ります。
さて、一応論駁しておきましょう。
文面のどの部分でもいいのですが、まあ例えば「織田信長の歴史」の部分だとしましょう。
そうした史実のようなものは、あってないようなものです。
確実にいたという証明もできなければ、いなかったという証明もできません。証拠となるような文献にしても「確からしさ」を高めるものとして機能するだけで100%の確実性を示すものとはなりえません。
重要なのは、そうした「あってないようなもの」の中にあるものをどういうふうに捉えて倫理の上で参考にするかという程度です。
「実際にあったのだから」といって何か固定的な観念を作ること自体が苦しみを生みます。
なお、これは参考程度で、論理には関係ありませんが、史的な点について言えば、当のそれは北伝仏教であり経由地の宗教観が組み込まれていますし、同時に根本経典自体が、仏教勃興時より何百年も経った後に編纂されたものであるという点もあります。
また、さらに参考程度ですが、ちなみに元々は基本的に口伝のみであり、口語で示すことは許容されていました。
元はシャカ族の言葉や古代のマガダ国の言葉などで説かれていたものだと推測されますし、その後、専門的に話すようにパーリ語で語られていたという流れがあります。
そんな中、サンスクリットはバラモン用の文語なので、サンスクリットで書かれたもの自体が既にニュアンスを壊しているという点すらあります。そしてそんなサンスクリットが漢文になって輸入されてきたという感じになっています。
ということすら、論理や法則としての理には関係のないことです。
本来、特定の対象を神格化するようなものではありませんし、ただ完全性を持った哲学的な論証を元に、苦しみのあり方と苦しみの脱し方を示したに過ぎないという感じになっています。
そういうわけなので、本来は「信仰」というものとは無縁であり、無縁であるという事自体がパーリ語経典に載っていたりします。
そしてそれは、「偉人や神格を持った人が言っているのだから正しい」というようなものではなく、「誰が発言したか?」という点を抜き去っても論理が完全に成り立つものとなっています。
なので、「パーリ語経典に載っているから正しい」というわけではないという感じになります。
それを「経典に載っているから正しい」とか「真理を説かれたものが言っているのだから真理である」となると、まさに盲信、狂信、つまり「カルト」となります。
執著を手放すための方法への執著というものも、一つの苦しみであるということと共に、正しさの証明として社会を媒介しようとすること自体が執著であり、苦しみの構造を持っているということをそれとなく示してみると良いかもしれません。
不完全な概念や観念への執著は、無駄な苦しみを生みます。
「普遍性のない真実でない以上は、正しいと証明することができない」とお話されたように「不完全性がある中、どうして不完全なものを絶対視するのか?」、という点について、相手さんご自身が外に求めること無く自分自身の意識の動き、執著の構造を具に観察し、「そうしないとどんな点で都合悪いのか?」という点について自発的に気付いていくというのが良いと思います。
「他を押し除けてもそれを第一優先とする理由や、他人にそれを伝えて布教しようとすること、信者同士で集まること」という点は、「安心できるコミュニティ」において「仲間と承認されるための条件」となっている程度でしょう。
しかしながら、本来はそんな条件無く安らげる場所であるほうが良いはずですし、究極はそんなコミュニティの必要なく独立して安穏にあることであるはずです。
「仲間を守る、仲間を傷つけるものは排除する」というものは全ての生き物において共通しているような自我の機能です。なので、そうした本能的機能と宗教的観念がごっちゃになっているという感じになります。
そして、あえて言うなら、その仲間の範囲を限定化するということ自体が「慈悲」と逆行していますよ、という点すら示しうると思います。
bossuさん
いつもありがとうございます。
文章を読んでいてとても納得がいきますし、私も知識を付けて、精一杯のことは頑張ろうと思います!
※相手側の母親は元々が無宗教であったことが原因なのか分かりませんが、私たちのことを応援してくれていると聞きました。
父親は難しいにしても母親の応援があるだけでも心強いです。
bossuさんの文章を読んでいて、私自身が彼女と生涯を共にしたいという思い、これもいわゆる彼女に対する依存、または、別の人では安らげないと思ってしまっている思いへの執着のような気がしています。
「苦」とは思い通りにならないという不満足を意味するところが大きいですが、「依存や執著が苦しみを生む」ということをもって「好きな人と一緒に過ごしてはいけない」と思うことも一種の観念への執著となりえますし、それはそれで一つの「苦」ともなりえます。なので気楽にいきましょう。
追記いただいたものを拝見する限り、相手のお母さんは、きっと「うまく環境に適応し、合わせている」という感じなのでしょう。そして、娘さんへの思いとして「せめて娘だけは」という一種の解放を望んでいるような気もしてしまいます。
経済面や所属コミュニティによる安らぎの面で、お父さんに実権を握られているという点が不安感になっていると思いますが、「そうしたものに依存しなくてもいい」という安心感を母子ともに感じてもらえれば、うまくいくような気もします。
ある程度経済面において安心してもらい、かつ、家族を含めたコミュニティという一種の「安心して帰れる場所」が確保できていれば事がうまく運んでいくような気がします。
もしかすると古臭い言い回しになるかもしれませんが、端的には「男気の見せ所」といった感じでしょうか。
直接間接問わず、たくさんの安心を与えてあげてください。
bossuさん
ありがとうございます!
今回の件、これまで教えて頂いたことをベースに考え、動きます。
bossuさんの記事やレスポンスを見て、私のこれまでの概念が大きく変わりました!
この質問はここで終わりにさせて頂きます。
長くなってしまい、すみません、そして本当にありがとうございました。
記事、全てに目を通します!
これからも楽しい記事を楽しみに待ってます。
何かしらお役立ちできたようで何よりです。
引き続きどうぞご愛読くださいませ。
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