演説家のスキラとカリブディス

アテナイでは、聴衆を形式によって反撥させたり、形式で本題から逸したりすることなしに、本題のために聴衆を獲得すということは何と困難であったことだろう!そのように書くことは、やはりフランスでも何と困難なことだろう! 曙光 268

曙光内の注釈によると、スキラはカリブディスに面する洞穴に住む海の怪物の女、カリブディスは、スキラと相対した海の渦巻きの擬人化された怪物の女、だそうです。

もう少し詳しく注釈がほしいところですね。東洋文化圏には馴染みの薄い話です。こういうことだけを書かれても意味がぜんぜんわかりません。

「行く手を阻む難所」としてのスキラとカリブディス

ただ、本文にはスキラもカリブディスも出てきません。旅人を襲うということで、行く手を阻む難所ということでしょうか。

方便無しで聞く人を獲得することは難しい、ということでしょうか。

だからといって、本題から逸れたことが本題になり、あげく真逆の方向に行ってはいけません。

これは釣りだと宣言すること無く、「真理です」などと言って驕り高ぶるようになる、それは出だしから釣りということに気づいていないか、想像以上に釣れるのでビジネスに応用しようとした結果起こった悲劇です。

あるべき方便

さて、あるべき姿は、「これで彼女ができる」と釣っておきながら、騒ぐ心は虚像です、といったり、「この本で大金持ちになれる」と言っておきながら、無執着の方へシフトさせたり、駆り立てによる錯覚だ、と伝える事が出来るようなパターンです。たまにそういうことをしてくれている人がいます。

セミナーで情報を売る人

それがあるべき姿なのですが、その本の中の情報だけを持ち出して、セミナーと称して情報を売るようなことをしている人がいます。さらにはカルト的に活動し、カリスマ的、教祖的な者になろうとする人たちもいます。

それにはおそらく対策が必要になってくるのかもしれません。ただ、セミナーで情報を売るとか、商業的にカリスマになろうとするのもどうかと思いますが、それよりも危険な人たちがいます。

無念無想ではないという
「矛盾」にも気づいていない人

狂信、狂暴に出る新興宗教などは、たいてい発端がヨガ教室などです。そして「無念無想の瞑想により真我が見えた」といったようなことを言ったりします。

ただこの手の人は「無念無想の瞑想で、真我が見えた」と言って、何かが見えている時点で無念無想ではない矛盾にも気づいていないような、錯覚の内の人たちです。

無念無想であるのに「見える」というのはどういうことでしょうか?

もしそうであるのならば、「その状態に入って、それが終わった瞬間」に瞬間的に移っていなくてはなりません。

この程度の論理矛盾もわからないのであれば、知能の面から疑いをかけたほうが良いのではないでしょうか?

その人達をどうにかしなければならないということはありません。単に少なくとも関わらないことです。

最低限自分からは関わりを持たないように避けて行くのが賢明でしょう。仮に関わりを持たねばならない局面があっても争わずに、躱せばいいだけです。

こちらの意識がこちらにある限り、誰が何かを言ってきたところで、ドラマのワンシーンを見ているのと同じことなのですから。

演説家のスキラとカリブディス 曙光 268

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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