最も古い慰めの手段

人が慰めを欲する時は、自尊心が欠落した時です。自尊心の欠落は本能的恐怖心が社会的フィルターにかけられた時に顔を出してきます。

世の中には、自尊心の欠落を食い止める、もしくはその充足に関する提言で溢れていますが、自尊心自体が虚像であり、それに関する解明解決策は、アイツの内で踊っているだけです。

最も古い慰めの手段ということで、自尊心を回復するために慰めを欲する時に出る欲や怒りについてでも触れていきましょう。

気質によって「欲」と出たり「怒り」と出たり

自尊心が欠落し、慰めが必要だと感じたとき、欲と怒りのうち、欲が強い人は他人に憐れみを乞い、怒りの強い人は、他人に罵声を浴びせたりします。承認欲求が当然かのように人からの承認を求めたりもします。

欲と怒りは、同じような性質を持ちつつも、ある対象が不足していることに重点を置く場合、つまり渇望感を感じているときは「欲」が出ていて、逆にある対象がありすぎる、というか、「目の前からなくなって欲しい」というような、排除の気持ちが怒りだと言われます。

もちろん同時にも発生しますが、元々持っているそれまで培われた気質によってどちらかが強かったりするので、行動としての結果は、「欲なら憐れみ乞」/「怒りなら罵声」というふうに分かれたりします。

「求不得苦」求めても得られない苦しみ

祈りや儀式、魔術的なもの

このエネルギーを何とかしようと思いながら、他人を使わずに何とかしようとしたのが宗教や魔術的儀式の働きです。

祈りや儀式で、何か別の存在に「助けてもらおう」としているような状態です。魔術的なものは、何か別の存在に、「代わりに攻撃してくれ」というようなことである場合もあるでしょう。

ただ、もし祈りや儀式、魔術的なものによって何かが起こっても、それによってもたらされる結果は、「現象」です。

たとえば嫌いな人が苦しんでいる姿を見ても、苦しんでいる映像や音声です。

その「嫌いな人」が自分の知らないところで亡くなったとしても、「亡くなった」という情報だけです。つまり有形でありながら無形の現象です。

ただの現象であり、情報なのに、そんなものが本当に欲しいのでしょうか。

慰めを欲しない時

自尊心がまだ機能を持っているときにも、慰めを欲しない時があります。ひとつは何かに集中していて、そのようなことを考えている暇がない時です。

ただその場合は集中が切れた瞬間にどっと押し寄せてくる時があります。同様に、意識の変性が強くて「なんでもできる自分」というふうに自己啓発セミナーのカンフル剤が機能しているときもそうなのかもしれません。

安全の証明と実感でいっぱいな時

もうひとつのパターンは、安全の証明と実感でいっぱいな時です。根底が恐怖心ですから、その直近に一番不安を感じていたようなことが解決されたような時です。ある種「慰められた瞬間」なので、これは少し違うかもしれませんね。

ということで抱きしめ合っている熱愛中の男女は、まず相手のことに集中しつつ、抱きしめられているので安全感もばっちりです。

その相手が自分しか見ずに、しかも経済的余力のある人ならさらに「安全の証明」が強力になります。老後の介護の安心まで視野に入るかもしれません。と言いながらも、その安全がいつ崩れ去るかわからないという不確定要素的な不安感もどこかにあるはずです。

一度、自尊心を度外視して、相手を見つめてみてください。

尊厳・自尊心と承認欲求

最も古い慰めの手段 曙光 15

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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