「曖昧な記憶」とパラレルワールドについてちょっとした思考実験的な遊びをしてみましょう。哲学とは本来こうした思考の遊びです。
パラレルワールドとは、並行世界、並行宇宙といったようなもので、単に「並行して存在する別の世界」というような感じです。定義付けとしては「時空」等々、様々なものを絡めることができますが、SFマンガ的にシンプルに、枝分かれした「自分の人生の並行世界」程度に考えていきましょう。
「曖昧な記憶」というものはたくさんあります。語の定義を忘れたとかそういったものよりも、自分の経験であるのに何となく「あまり思い出せない時期」があったり、出来事の記憶が曖昧だったりといったようなものです。
そうした「曖昧な記憶」とパラレルワールドについて触れていきます。
「あまり思い出せない時期」
「あの時こうしていれば、どんなふうになっていたかなぁ」と思うようなこともたまにあり、少しの間空想にふけるというのもなかなか面白いものです。
しかしながら、なぜかあまり思い出せない時期というものもあります。
特段、特徴付いた出来事がなかったのか、その前後時期と同じようなことしていて区別がつかないのかはよくわかりませんが、時系列的に思い出そうとしても、いまいち自分で何をしていたのかわからない時期があります。
思い出せないような時期なのだから、特に重要なことでもなさそうですが、何かしら思うことがあり、記憶に蓋をしているのかもしれない、というようなことを思うこともあります。
そうでなくとも現実だったのか、夢の中の出来事だったのかわからないような記憶もちらほらあります。
友人に聞く形で「ああそうだったそうだった」となることもしばしばです。
基本的に出来事に関する記憶はよく覚えている方であると思っていますが、もしかしたらちらほら意識による「捏造」が入っているかもしれない、と思う時があります。
ただ、この「生」自体が明晰夢のようなものなのだから、別にどうでもいいと言うことも思っていたりします。
パラレルワールドの方に意識を向ける
稀にふと集中力を高めるだけ高めて「ふっ」と刹那瞬に入るような時があります。
その時にちょっと「あの時こうしていれば、どんなふうになっていたかなぁ」という枝分かれ、仮想的なパラレルワールドの方に意識を向けることがあります。
用を足している間等々にそんなことをしたりするのですが、やはり瞬間的に観えるという感じでちょっと楽しかったりします。
認識する働きとしての「心」
ただ、そうした枝分かれした世界、パラレルワールドに思いを馳せ、多世界解釈なんてなことをしても、結局認識する働きとしての「心」があるのは、この中心だけです。なのであってもなくても同じです。
意識の全情報をコンピュータに入れて活動させても、その演算結果を認識する「点」としての「心」が残るのかという面で考えれば残らないと考えるほうが妥当です。なので情報は残っても他人事です。
パラレルワールドについてもそれと同じことです。
それがあろうが認識する「点」としての「心」はここにあるのであれば、他空間に情報状態があっても他人事です。
もしその点を移動させることができたとしても、今の情報としての自分の記憶はないままにその世界に行くことになります。それは単なる転生です。
「未来」の場所を他のパラレルワールドの方に向け、認識する「点」としての「心」を移動させる
しかし微妙な枝分かれ、比較的時期の近い世界であれば、理屈上類似した記憶は持ち越しになります。持ち越しという感じではないですが、微妙に差がわからないというような印象になるでしょう。
そして、時間の経過は未来が今になり、今が過去になっていきます。ということは、次に「今」にやってくる「未来」の場所を現在の延長ではない他のパラレルワールドの方に向けて点を移動させれば、現状の先にある世界とは異なった世界に行くことになります。
もしパラレルワールドに移動するということになった場合、それまでの自分の意識をある程度持ち越せるのか、それとも全く別のものになるのかというところでいくつかのことを考えることができます。
もしある程度記憶を持ち越せる場合は記憶に不整合が生じ、全く持ち越せないのであればいわゆる「転生」ということになります。
今の自分の意識との整合性がない時期
そう考えると、もしかして「あまり思い出せない時期」というものは、別のパラレルワールドでの経験として、今の自分の意識との整合性がない時期であり、だからこそ記憶としての情報から欠落しているのかもしれない、という予想もできます。
「過去」であるため二度と帰ってこない時期であり、そんな記憶は今の意識のつじつま合わせとして、曖昧にはめこまれているようなものです。記憶の中の出来事などその程度です。
そうなるとパラレルワールドに移動後の自分が、自分の記憶を思い出そうとした時に「類似した記憶」の持ち越しによって何かしらの整合性がなくなり、情報に不具合が起こったため「よくわからない」ということになっているのかもしれないという解釈もできます。
また、意識的な記憶の他に、体の状態が一種の記録として機能していると考えることができます。そうなると、体の状態に対して記憶は別のものになるので情報が乱れるということも起こりえます。
パラレルワールド移動後の自分の状況にとっては、つじつまが合わず、移動前の自分の世界であるとつじつまが合う、というような出来事であり、パラレルワールド移動後の自分の記憶は別にありながら、それでも移動前の出来事と類似していて、部分的な整合性が取れず、印象を上手く統合できないというような情報状態になっているというような感じです。
本来は近い記憶であっても移動前の記憶は関係がなくなるはず
極端な違いであれば、移動後の自分の情報状態のみとなり、転生であるため、移動前の記憶は関係ありません。本来は近い記憶であっても移動前の記憶は関係がなくなるはずです。単なる転生です。
ただ、枝分かれとすら気づかない程度の微妙な枝分かれとしてのパラレルワールドへの移動、という感じで状況が比較的類似していると、記憶は以前のものが持ち越されるというような構造なのかもしれません。
もしくは時空の歪みによって「部分的に重なり合った」というようなことなのかもしれません。
しかしながら「今の自分の意識との整合性がない時期」というものを想定しなくても、移動後の自分の意識としては「その部分が欠落していても良い」ということになっているか、その世界では本当に記憶喪失だったということすら考えられるわけです。
寝て覚めてというプロセス自体が「移動」かもしれない
記憶自体が、今の状態から作られるということになっているのかもしれませんし、その今の状態は、未来の状態から作られるということになるのかもしれません。
そうなると、寝て覚めてというプロセス自体が「移動」ともとれますし、「移動していない」ということを絶対的に証明することはできません。
寝て覚めてというプロセスを撮影しても、認識する働き、認識する点としての心は撮影できませんし、その動画は移動後の世界で生じたものであり、撮影しようと思った記憶すら移動後の世界でつじつま合わせのために生じたもの、ということになるからです。
というより、それは寝て覚めてという「はっきりした意識が一旦遮断されてまた発生する」といったものだけでなく、厳密には毎瞬ごとにそれは起こっているわけです。それを反駁できないという説明は、先の「撮影に関する構造」と同じです。
「移動」に関しては「微妙に近いから気づかない」というだけかもしれません。
遠い未来に関しては指数関数的に可能性が膨らんでいく
そうなるとあまりに直近では実感が無いかもしれませんが、多少なりと遠い未来については無限の可能性があるということになります。今との距離が遠ければ遠いほど(つまり未来が遠い未来であるほど)、指数関数的にその可能性の数は増えていきます。
となると、近視眼的に「自分にはもう可能性がない」と嘆くことは大いに馬鹿げています。哲学的に反証可能です(といっても、そんなことは実感として誰でも想像がつくことです)。
―
さて、もし移動するとすれば、どんなパラレルワールドが良いでしょうか?