暇や退屈という苦悩

生きている限り、たいてい欲か怒りに纏わりつかれます。しかしそれらが静まっていても結局「暇」や「退屈」というモヤモヤしてどんよりとした苦悩がやってきます。

そうした暇や退屈な時間は、たいてい思考がめぐります。嫌な記憶ばかりが思い起こされることもあります。そしてまた欲や怒り、不安等々がやってきます。

そしてその思考を止めるため、思考を紛らわせるために、様々なものに依存し、それに汚染されます。

暇や退屈という状況から欲や怒りや不安が生じる思考がめぐり、その思考を紛らわせるために何かに依存する、という格好になっています。

引きこもりゲーム中毒というような状況も、結局こうした構造が奥にひそんでいるわけです。

そこで世の凡夫の意見としては、「退屈だからろくでもないことを考えるんだ」とか「暇じゃなくなったら治るだろう」というような論調になります。

それはそれで、俗世間的な解決策としてある程度の意味を持ちますが、根本的な苦悩の構造を脱却しているわけではありません。

暇や退屈といった苦悩からの脱出

ここで「暇や退屈といった苦悩からの脱出」という感じで、暇や退屈という苦悩の停止といった面から、より本格的な解決策について少し触れてみましょう。

この解決策は極めて簡単なことなのですが、簡単ゆえに軽視したり、無駄に納得を求めたり、ナメてかかりやすいというような性質を持っています。

しかし、これは修行です。

別に本人が苦悩からの脱却に興味が無いのであれば、やらなくても問題はありません。僕には何の苦しみもないですから全く構いません。

ヴィパッサナー

と、少し引っ張りましたが、解決策は「ヴィパッサナー」です。ということで修行です。

といっても苦行ではありません。

端的には「今起こっていることを確認する」ということになりますが、もう少しポイントがあります。

瞬間ごとの現象を確認し、短い言葉でラベリングするというものと、その確認の集中のために、動作を可能な限り遅くするというようなコツがあります。

身体的動作や自然に想起した概念や感情すべてを確認します。

暇や退屈に関する修行

そこでひとつ、修行をしてみましょう。

あぐらや半跏趺坐、結跏趺坐、正座等々で座った状態から、手を上げ下げするというだけの修行です。

依存対象があるならば、それを目の前においても構いません。

目を閉じて右手を上げることだけに集中します。速度は最低速のスローです。上げきったら下げます。「これ以上は不可能」という限界まで上げきることを心がけましょう。下げる時ももちろん超スローです。

「右手右手右手」や「右手 上げる」といった言葉を絶え間なく心の中でつぶやきます。

途中で足やおしりが痛かったり、かゆかったりして意識がそちらに向いた場合は、「痛み」「かゆみ」とラベリングします。

呼吸に意識が向いたら、その呼吸の動作をラベリングします。本来は主語、我の概念を取り払った「膨らみ、縮み」が理想ですが、「吸います、吐きます」というような感じで十分です。

違うことを考えたりしたら、ひとまずどのようなことでも「妄想」とラベリングします。

それでもしつこく思考が巡ったり記憶が呼び起こったりしたら、一応それを観察しながら「右手!」と意識を押し切ります。

「今は右手!」という感じですね。

ちなみにこの押し切りは、仕事中にスマートフォンを触りたくなるような癖の改善にも役立ちます。

依存対象に意識が向いた場合は、「ああ、今意識がいったなぁ」と確認だけします。そして右手に意識を戻します。

本当にゆっくりと右手を上げようと思うと、5~15分くらいはかかります。

おそらく腕が痛くなってきますが、「痛いから早く終わらせよう」という気持ちが生じたということ等も確認しながら、なるべくゆっくりの動作を心がけてください。

右手のあとは左手です。本当は続きがありますが、ひとまず左右の手の上げ下げだけでも十分です。

引きこもりの場合は時に有効です。

「めんどくさい」と思うかもしれませんが、暇で退屈なのですから、別にいいじゃないですか。

時間以外に何の損失もないのだから「意味がない」と思う前にやってみましょう。

修行中「つまらない、早く終わらせたい」と思った場合は、それをただ単に確認します。その感想について評価をする必要はありません。思ったことはひとまず事実なので、確認だけします。

さて、ここでおそらく「エビデンスは?」というようなカッコつけもいると思うので、あまり意味はありませんが、一応触れておきましょう。

扁桃体が活性していると、不安や恐怖が増幅します。

過去の経験を想起したり、同じようなことを何度も考える反芻思考をしていると、不安や恐怖、欲や怒りが起こりますが、その反応が大きくなります。

現在の動作に意識を集中し、感情や感覚を観察していると、扁桃体の活性が収まります(このあたりは目的と名称を変えたような療法についてアメリカの大学が研究したりしていました。詳しく書いてもいいですが、あえて避けておきます)。

ということで、強度の問題ですが、同じような現象(思考を含む)を捉えるにあたっても、反応が収まります。

なので、普段人の目が気になる人も、人の目がそんなに気にならなくなったりします。

苦悩が減り、集中力が生まれる

現在の現象をラベリングすることと、「押し切り」を修行していると、常にそうした癖がつくようになります。

日常の動作は通常の速度でも構いませんが、できるだけ動作をラベリングします。そして、「今現在起こっていないこと」に関する記憶の想起、思考が起こった場合常に「妄想」とラベリングします。

しつこければ、今の動作、今の動作への「意志」を心の中の言葉で押し切ります。

「蛇口をひねるんや!しめるんや!」

といった感じです。

歩いているときであれば、常に「右足、左足」といった感じです。もちろん他のことをしながらということは避け、足の動きに意識を向けてラベリングします。呼吸に意識が向いたときは、「吸う、吐く」といった感じでそちらをラベリングします。

しかし、「昔の彼女のこと」が頭に浮かんだ場合は「妄想」とラベリングします。すぐに「右足、左足」と足の動作に意識を向けます。

他の概念、思考が浮かんできたら、常にそうして「妄想」とラベリングし、今現在の「身体的現象」に意識を向けるように気をつけます。

大量の「忘れていた記憶」が頭をよぎるかもしれません。

しかし、「そうしたことを今思い出した」という確認をし、「それは今現在起こっていないことであるから妄想である」と確認し、放っておきます。

思考を膨らませたり、解釈しようとしないようにします。

間や空白に対する恐怖と勇気

六根・六境と五蘊と心

続けていると、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)とそれに対応する六境(色、声、香、味、触、法)、六境に対する五蘊、そしてそれを受け取るのみとなる「心」の構造が見えてきます。

我を構成するもの、我の無常、心とは何かという点が見えてきます。

今現在の現象の受け取りにしか意識が向かなくなると、様々な恐怖心が虚像であることが見えてきます。

小刻みな動作への集中

すると俗世間的な例であれば、「諸条件を満たしていないと仕事の面接に行くことはできない」「友達に連絡してみようかと思うけど、あいつも忙しいかもしれない。断られたらどうしよう。今後三回くらい連続で断られたらどうしよう」というような意識による苦悩が消えていきます。

「ひとまずこれとこれを準備しておくか」というところに意識が向き、一秒ごとの小刻みな動作は、全て大したことはないので、コマを進めていくこともできます。

様々なステップがあると思いますが、そのステップの把握もたいてい大したことはなく、やることも小刻みに考えるとすべて大したことはありません。動作としては簡単です。気持ちの動揺があるかどうかだけです。

その動揺は思考や記憶の想起により生ずるものです。

今本当に起こっている現実の現象や動作に意識を向ける集中力が高まっていれば、そうした消極的思考や記憶の想起は動作を止める力を持ち得なくなります。

暇や退屈がもたらす思考による苦悩も消えていきます。

時間が空いても「呼吸に意識を向けて集中力を高めておくか」というようなことができるようになります。

自分を責めたり、不安がらせるような思考を追い出すこともできます。

「欲や怒りはあまり生じていないが、暇で退屈で、何かをしていないと消極的思考や嫌な記憶ばかりが頭を巡る」という時には、ヴィパッサナーを心がけてみてください。

Category:うつ、もしくはうつ気味の方へ

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