「思い込みを外す」ということについてでも触れていきましょう。世の中ではいたるところで「思い込みを外しましょう」ということが言われたりします。経営論を始め、メンタルケア的な分野、人生論的なところまで様々なところで、思い込みを外すというような点について語られています。
ただ、「思い込みを外す」ということについて、世間的な目線で近視眼的に捉えてしまうと、本当の意味での「思い込みを外すこと」は難しくなってしまいます。
無理をしたり、抑え込んだり、あげく洗脳されたりというようなことにもなりかねません。
思い込みを外すには、まず観念を消滅させる
ではどうすれば本質的な「思い込み」が外れるのかという点ですが、まずは観念の形成への疑いから、観念を消滅させることです。そして最終地点は現実を見破るというようなことになります。
おそらく世間では、「できない、ということは思い込みだ。できる」というような自己啓発洗脳のような雰囲気でこうした部分が語られています(これも僕の思い込みではないかという部分もあるでしょう。ただ、解釈可能性として、その可能性を「検討」することはできます。それを否定することはありませんし、思い込みであるという仮定でもかまいません)。
「思い込み=思考のブロック」が云々というようなことですね。メンタルブロックが云々というようなものです。
そうしたものがある前提で「できる理由の方を探そう」というのも構いません。
しかしながら、無理にそうしたことを押し進める必要もありません。
「それは思い込みであり、思い込みが外れれば、この先に進める」
ということすら思い込みです。
単なる条件付けです。
考え方を変えて抵抗を無くす、というのも構いません。
俗に言うアファメーションを利用するというのも構いません。
思い込みの根源
しかしながら、それらは結局、自我に許容を与えようとしているだけです。
本質的には、そうした自我、元をたどれば「安心したい」「安心できる確証が欲しい」という判断機構自体が、思い込みの根源です。
本当は何も要りません。
なぜ安心できないのか、というと観念があるからです。
観念の形成を疑えば、観念が消滅していきます。厳密には、それが虚像であることがバレていきます。
より哲学的に見ると
「時間」も観念です。
「私」も観念です。
「思い出や考え方」など思いっきり観念です。
「想起」も観念です。
今という瞬間しかありません。
今という瞬間しか無いのであれば、過去の記憶から形成された観念は、あってないようなものです。
今の現象と関係はありません。
関係があるように感じるのは自我の機能です。
関係があるように感じて得をすることはありません。
「安心したい」という焦燥感くらいしかもたらしません。
うまくいっても
「次もうまくいくだろうか」
というようなことを思います。
うまくいかなければ
「どうしよう」
とか
「前はうまくいっていたのに」
というようなことを思います。
今の現象は今の現象です。
今の現象と何かの観念をくっつけること自体が「思い込み」です。
そうした思い込みや観念があっても構いません。
無くそうとしたり、「無くならなければうまくいかない」ということも思い込みです。条件付けです。
条件付けがあればうまくいかない、条件を外さなければならない、というのも思い込みです。
思い込みの域を脱すると意識することすらなくなる
本当に思い込みの域を脱すると、そのようなことを意識することすらありません。
思い込みがなければ、目の前のゲームを楽しみます。
しかしそれを、「このゲームをやったら~」と何かの観念がつくと、おかしくなっていきます。
学習要素があるので学業成績が上がる、単なるゲームなので学業成績が下る、というようなことは、勝手な観念です。
思い込みがなければ、目の前の現象を楽しみます。
「これをやったら後々も安心だ」
「これをやったら後々面倒だ」
などということは思いません。
つまり、本質的には、思い込みというものは、目の前の現象に観念がくっついてしまうということですね。
そしてそれはほとんど安心欲求が根源になっています。アイツこと自我そのものです。
では、自我そのものを退治すれば良いのかということになりますが、自我を退治することはできません。
思い込みの属性を多少なりと変化させることくらいはできますが、根本的に退治するということはできませんし、する必要もありません。
「現実は、こういうことだからな」と、意識の向きを変えるだけです。それだけで出る幕をなくします。
依然として自我はいますが、「心」に何かを見せることはできなくなります。
続き:固定観念への態度
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