全てのタイプの怒りではありませんが、人に対する怒りについては、その中に相手に対する何かの期待があり、「変わって欲しい」というような願いが込められている場合があります。
そしてその期待が無くなれば、怒りを発端とする嫌な感情は消えていきます。
あくまで怒りや嫌な感情が「消えていく」のであって、瞬間的な怒りを経験しなくなるわけではないのかもしれません。
といっても、自分が認識している今は瞬間的に変わっていくので、それでも全く問題がない、という感じになります。
基本的に怒りは何かを排除したいという感情です。そして怒りの裏には、何かしらの基準の保持や「期待」という要素が隠れているのです。
属性は違えど期待がある
期待というと、相手に対しての「性格も含めて考え方を変えてくれるだろう」というようなものを想像しますが、これはそうしたものに限定されるわけではなく、属性は違っても様々な形での期待を無意識的に保持しているという感じです。
最もわかりやすいのは、「自分の話を理解はしてくれる」ということです。
相手が自分の話の内容について同意はしなくても理解はしてくれるということを無意識に思っています。
同じ日本語を使うのだから伝わるだろうと。
最低限自分の話した言葉の意味くらいは伝わるだろうという期待です。
罵声を浴びせるか、諭すような感じで言うかは別問題として、お店にクレームを言う人も同じような感じです。
「少なからず意見は採用されなくとも、そうした意見自体は相手に伝わるだろう」
そんなことを思っているはずです。
少なくとも自分の意志や言葉は理解することができるだろうという期待です。普段は意識しないものの、そうした期待を少なからず持っているはずです。
だからこそ電話応対なんかの研修などでは「相手の話をオウム返しにしろ」というものが実施されているのでしょう。
あなたが無意識に保持している「最低限、自分の話は伝わるだろう」という期待には沿っていますよ。ということです。それで怒りのエネルギーを鎮めようという試みです。
話した言葉をオウム返しにして「お話されている内容を理解はしていますよ、言葉くらいは伝わるだろうという期待には応えていますよ」ということを暗に伝えているという感じです。
また、怒りと欲は表裏一体であるため、こうした「無意識の期待に応える」という形は、怒りに対するものでなく、欲にも対応されることがあります。
無意識に期待を寄せている欲への対応として、共感を示すというようなやつです。
まあ「わかるよーは魔法の言葉」みたいなものです。
しかしながら、そんな期待とは裏腹に全く話が通じないという瞬間もあるのです。
期待をしなくなる時
日本人で日本に住んでいて、お店に行って何となく期待はずれな「不快な思い」をした場合、怒りが生じることがあります。
自分の中では「これくらいが当然だろう」とか「それくらいの対応は普通だろう」という基準があり、それを無意識に期待として保持しており、それが裏切られた時の怒りです。
「飲食店に行けば注文後だいたい10分位で料理は出てくる」という期待を持っていた場合、実際に料理が出てくるのが30分後だった場合は、怒鳴るかは別として怒りが生じてくるはずです。
さらに言うと、ファストフード店や牛丼屋などであれば、もっと早く出てくるのが当然だという基準があるので、さらに怒りは強くなります。つまり、期待とのギャップがあればあるほど怒りのエネルギーは強くなるのです。
また、一般的にホテルに行けば概ねかなり丁寧な接客をしてくれるはずです。ホテルに宿泊するということは「睡眠中の無防備な体を預ける」という構造があるため、無意識に保持した不安感を払拭するために丁寧な接客を心がけているというのが基本的にあるからです。そして、それが高級ホテルであれば、なおさら期待度は上がっているはずです。
そんな中ホテルの従業員が、暇そうにポケットに手を突っ込んでいたとすれば、怒りがやってくるというケースも考えられます。
でも、その人が例えば中央アフリカのある都市で、日本語はおろか英語すら通じないとすれば、同じような事象が起こったとしても、落胆はあるものの怒りはしないことが想像できます。
海外なので、言葉でどうクレームを表現すればいいのか分からないというものもあり、また文化の違い的な諦め、そして相手がどう出るかわからないという恐さなどもあります。
怒りの感情は怒鳴ることだけではない
なお、怒りの感情は、「怒鳴る」といった爆発的なエネルギーを伴った感情だけではありません。不快感やある種の落胆など、目の前の現象を排除したいというもの全てが怒りになります。
だからこそ、「怒りっぽい人」としてわかりやすい人だけでなく、グチグチネチネチ不平を言っている人も怒りに満ち溢れていますし、不服そうに振る舞っている人も怒りのエネルギーを保持しています。悲しみすらも一種の怒りです。
そしてその裏には、「期待」があるのです。
というわけで、怒りは「喧嘩腰になって怒鳴る」ということだけでなく、何かしらの基準、言わば常識のようなものを保持し、無意識で期待しているのに、それが「裏切られた」、「裏切られている」という風に感じている場合の全てが対象となります。
そういうわけで夫婦喧嘩が絶えないようなご夫婦や、喧嘩ばかりの恋人たちは、怒りの原因は相手にあるのではなく、自分の中に根拠なき常識基準と、それに対する期待があるからだということも考えてみてください。
そして「根本的に話が通じない」という場合は、対機説法的に相手のフレーム、相手の持つ基準や使用言語に合わせて話してみるというのも良いでしょう。
木鶏のごとく 走っていて狸が出てきた場合
さて、木鶏の例え(静かなること木鶏の如し「無理なもんは無理 改」)や無人ボートが当たってきたという場合を想定してみても、怒りの矛先がないと、怒りが生じないことがあります。それは相手がいないからです。
人が乗っているボートが意図を持って自分のボートにぶつかってきた時には怒りが生じます。しかし、相手がうろたえてパニックになりながら、わざとではないような様子でぶつかってきたときならば、「せっかくのいい雰囲気が台無しだ」というような怒りはどこかしらあるかもしれませんが、その怒りはかなり静かなものになります。
さらに無人のボートが風に揺られてぶつかってきた時ならば、ぶつかってきたボートに人が乗っていないのでひとまず怒りの矛先はありません。
と言っても無人ボートならボート管理者に怒りを覚えるでしょう。
「きちんと管理しとけよ」という怒りが生じてしまうという感じになります。
ということで、車で走っていて飛び出してきたタヌキくらいを想定してみましょう。
自分が車で走っていて、人が飛び出してきた場合を考えてみた時、ボールを追いかけていた子供に対する場合と、20歳位の若者がふざけて「ドライバーを焦らせるゲーム」をしていた場合、そして狸が出てきた場合では、感情がそれぞれ異なるはずです。
もちろん、故意にやったことなのかどうかということ、その奥にある動機がいかなるものであったのかというところが怒りの感情に大きな影響を与えることは確かですが、言葉が通じるかどうか、話が伝わるかどうかというところ、つまりそうした言語コミュニケーションが可能であるという「期待」も怒りの感情の大きな要因として考えることができます。
「相手に話が伝わるかどうか」
そうした面がかなり大きな比重で怒りや嫌な感情に影響を与えているはずです。
そういうわけで、
「この人には話が通じない」
と気付けば、それほど怒りもやって来ません。
期待が無くなれば嫌な感情は消えていく
相手に対しての「悪いなぁ」という気持ちや「怒り」は、少なからず相手への期待があります。
「仲良くできると思ったのになぁ」
とか
「せめて話は通じるだろう」
そんな期待が何処かにあります。
話は通じたとしても相手が想像していたような人ではなかった、という場合もあります。
そうした場合は怒りか残念さがやってきます。
その奥にはどこかしら「相手にも幸せになって欲しい」という期待があります。
でも通じない人には通じません。
相手を心底コントロールすることなどできませんし、する必要もありません。
でも少なからず、相手への怒りが生じるということは、相手への期待があります。
「期待をするな」
ということではないのですが、執着するようなことではないという感じです。
相手に変わってもらう必要はないのです。
ただ、そんなことで自分の感情が不快になるのなら、視線を変えていけばいいだけ。
「やっぱりあなたにも幸せでいて欲しい」と、相手に期待するということは、一応何処かに博愛主義のようなものを持っているはずです。
しかし、それは少し歪んだ博愛主義です。
思想団体のデモと同じような構造になっています。
社会が良い方向にいって欲しいというものは一見素晴らしいですが、それを理由に今現在苦しむ必要はないのです。
今現在苦しむと、後でいいことがあるというのはカルマの法則や厭世主義、来世主義が大好きなカルト教団です。
「これは一過性の現象にしか過ぎない」
そう気付くだけで十分です。
「他人のことなど知ったことではありません」くらいの感覚で行きましょう。
牛丼屋の例え
かなり古い話で、これは僕の友人が実際に体験したことですが、彼は牛丼屋でアルバイトをしていました。深夜時間帯です。
深夜の牛丼屋に浮浪者のような人がお客としてやってきたそうです。
そこで、牛丼を注文し、
全て食べ終わった後、
無言で立ち去ろうとしました。
「すいません。お会計お願いします」
と友人が言うと
「こんなまずいもんにな、金払えるわけ無いやろ」
とその浮浪者然とした人は返すのでした。
友人は直ぐに警察を呼びました。
そして事件は一件落着です。
彼には「期待故の説得」という選択肢が無かったのです。
そして同時に、怒りによる嫌な感情というものもまた、全く無かったのです。
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