幼きより身を翰墨に托するといへども

詳しいことはわかりませんが、才能と呼ばれるものは基本的に「幼少期にどれだけ対象に夢中になったか」ということからしか生まれないものであると思っています。

それは文化系の領域だけなのかもしれませんが、そうした才能のようなものが語られる時、「生まれつき」と表現されたりするものの、本当は単に幼少期の体験から生まれるものばかりなのではないかと思ったりするわけです。

話し方のパターンなどは小学生くらいの時からほとんど変わっていませんし、何を面白いと思うかという点についても細かなジャンルやパターンは枝分かれしていそうなものの根本的なモデルはあまり変わっていないというような気もします。

柔軟性や熱中度

柔軟性や熱中度という面から考えて、大人になってからでは習得するのが難しいという意味で、努力ではカバーしきれないものということになります。

しかしながら、努力というものとは違いますが、柔軟性、つまり固定観念の影響をあまり受けないという点と夢中になるという要素があれば、大人になってからでも能力を開花させることはできると思っています。

才能の発掘や開花と努力の関係

そうした一種の才能の発掘や開花と努力的なこととの関係性ですが「続ける」というのは一つの要素となるものの、ちょろちょろ続けるというパターンでは発掘や開花は難しくなるというようなことも思ったりします。

どうせやるなら短期間で一気に思いっきりという形でないと突き抜けることはそれほどありません。

といっても、その短期間ですら「思いっきり」ということがない場合がほとんどです。少しの興味は続いても結局一過性の暇つぶし程度になってしまい…というのが一般的なあり方ではないでしょうか。

長く続けつつ、途中途中で「短期間思いっきり集中する」というものがやってくるくらいがちょうどよいという感じになると思います。

情報を短期間で大量に流し込むことで見える基礎と特性

嫌々要素があれば興味関心は続かない

一般的な学習の方法は平均的な底上げには役立ちますが、結局は半ば嫌々要素があるので、興味関心は続きません。しかしとりあえず学習時間を稼げばある程度はなんとかなるというようなことを変に訓練されているので、結局全てにおいて「それほど」という感じになってしまいがちです。

また、柔軟性や夢中になるという熱中度合いについて「とらわれず夢中になっている」と、それがそうであるかのように無理に思い込むというのは意味はありません。無理に思い込もうとしているということは、逆に無いことの肯定となるという構造があります。

そうした面で、自然に熱中できるという点は基本的には努力や工夫でなんとかなるものではないという意味で、幼少期から取り組む場合に比べて困難となるという感じになるでしょう。

幼きより身を翰墨に托するといへども。

才を伸ばすは心持ち。

(後で気づきましたが、本投稿で特別企画1000記事目だったようです)

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