幸福の目印

あらゆる幸福感の共通点は二様である。感情の充実とその点の自負とであり、それ故にわれわれは魚のように自分の本領を身の回りに感じ、その中で踊る。 曙光 439 前半

何度か触れていますが、「幸福」という言葉が苦手です。その言葉には「良いことがあった」というような、「今までにはなかった」という認定があるからです。すなわち、それまではダメでその後に良いことが起こったというマイナスからプラスという構造が潜んでおり、常日頃は不幸であるという認定をしてしまうということもあるという感じです。

それに加えて「幸福」という概念を宗教屋や自己啓発洗脳が多用しているということも加味されているのかもしれません。

鎖に繋がれている様を示す「幸」という字

まあ元々幸福の「幸」という字は鎖に繋がれている様という意味を持つという解釈があるそうです。死刑にならずに牢獄に入れられるという刑罰で済んだというような意味があり、生きていられるだけ幸せだというような意味合いです。

なので、字源から考えても何だか少し微妙な感じがしてしまいます(名前に含まれている人には申し訳ないですが致し方ありません)。

幸福の「幸」はもちろん「幸い」という意味になるのでしょうが、字源の解釈から考えた場合、それはどちらかというと「ビクビクしていたが、ホッとした」というようなニュアンスが強くなるような気がしてしまいます。

そうなるとやはり、「それまではダメだったが、その後に良いことが起こった」という「マイナスからプラス」という構造を含んでおり、前提としてのマイナスが組み込まれているような感じになってしまいます。

「幸福になる」という表現

「幸福になる」というとき、今現在が幸福ではなく満たされていないということを含んでおり、幸福になるためには何某かの条件を満たす必要があるという条件化を意味するという側面があります。

幸・不幸自体が虚像です。何かの感情、感情の充足とその確認・自負を求めて、何かの行動などを条件化して幸福を追い求めている限り、おそらくそれには気づくことができません。

あらゆる幸福感、というよりも、一般的な幸福感といったほうが適切でしょう。なぜならば、「あらゆる」ということはすべてを包括するということですが、感情を介さない場合があるからです。

また、充実という表現よりも、渇望感や恐怖感が消えている状態、つまりアイツの騒ぎが落ち着いている状態といったほうが正しいでしょう。

楽しそうな人は、おそらく本当に楽しんでいます。

しかし確かに幸福感という意味で感情の充実とその自負があっても、それはその場の幸福感であり、一般的な語句の用途としては的を射ていますが、幸福感と幸福は少しのニュアンスの違いながら、驚愕するほどの差があります。

それよりもまずニーチェに突っ込みたくなる点があります。

まず、幸福感自体が「感情」なのですが、いかがでしょう?

幸福の目印 曙光 439

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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