大瀧詠一氏

もう最近は、楽しかったり深く味わったりするより、静寂の中で静かにできるだけ何も感じずにいるほうが好きになりました。

しかしながら、久しぶりにCDを買ったりしたので、この方について。

かなり有名な方ですが、知らない人は知らない(僕より若い人なら)、というような方ですね。しかし彼が手がけた曲を聞いたことがない人は、この日本では生まれたての赤ん坊以外ではおそらくいないでしょう。凄腕アーティストであり、作曲家として僕が最も大好きな人です。語るまでもないほど、というより語ってはいけないほどのすごい人です。

さらにいうと加藤和彦氏も最も大好きな人の一人です。

大瀧詠一氏は「はっぴいえんど」、加藤和彦氏は「フォーク・クルセダーズ」の方です。残念ながら現時点で両名とも亡くなられています。

個人的にはこの両名に、同じニオイがすると思っています。

それは、

「素晴らしい。芸術的だ!」

と周りが騒いでも、クルッとひっくり返って

「そうかい。『あの曲』の音符をひっくり返しただけなんだが」

と、ふざけて笑うようなニオイです。

加藤和彦氏の「悲しくてやりきれない」なんかはわかりやすいですね。

そういう意味で、特に大瀧詠一氏については、手塚治虫氏と同じニオイがすると思っています。初めて大瀧氏の曲を聞いた時は、「あ、トキワ荘!」と思ってしまいました。

マンガの中で登場キャラが動きまわる軌跡が「S・M・L」になっているなどというお遊びです。「ブッダ」の中にブラックジャックが出て来るようなものです。

大瀧詠一氏の曲を聞くと

そういうわけで、何かすごい境地に立った人だけがわかる

「そんな大したもんじゃないよ」

という大人の余裕を感じます。

そういう感じです。大瀧氏にも手塚氏にも大人の余裕を感じてしまうのです。そういう意味でタモリ氏のようですね。

締め切りが迫っていてもアシスタントさんに

「はやくしろ!」

と、怒鳴るタイプどころか

「どうだ、ちょっと映画でも観に行こう」

と、言ってしまうような感じです。

ところで大瀧詠一氏の曲を聞くと、僕は体温を感じます。

よくわからないのですが、真夏に川の中に飛び込んだ後に少し体をタオルで拭いて肌がサラサラになった時の肌に感じる体温と風とか、真冬にダウンジャケットを着たまま、マフラーを外して椅子に座った時に首元からふわっと顔にあたる体温、みたいな感じです。

さて、すごい境地とは何でしょう

因果関係がよく見渡せる立場にいること、その立ち位置が「すごい境地」です。これは単にふざけてばかりいては行けません。

僕はこれをビルの階段理論と呼んでいます。

一階にいるときは、見える面積が限られていますが、二階、三階と、下界を見下ろす地点が高くなればなるほどいろいろな構造がよくわかります。

直線だと思っていた道が実は少し曲がっていたり、「あの交差点は想像よりよく混むな」とか、「実はあんな所に看板があったのか」とかそういったことがよくわかります。

しかしこれは、何かをすっぽかして飛び級で行けるものではありません。そしてお金では買えません。足が疲れにくい靴などは買えますが、階段は自分の足で登らなければなりません。

「エレベーター」を使えばいいじゃないか、というツッコミが来る前に、

「別にビルじゃなくて山でもいいです」

という事を先に言っておきます。そういう問題ではありませんから。

サンプリングとミックス

近年コンピュータがかなりのことをやってくれる時代になりました。

そこで、いろんな楽曲を組み合わせて、独自のミックス物を作るということが簡単にできるようになりましたが、この構図は、実は太古の昔から変わっていません。

「オリジナルだ!」

といえば、オリジナルですが、論文でも大半が引用ばかりで自分独自の意見などそれほど無いのと同じように、それはどの分野でも同じことです。

それを「100%オリジナルだ!」と言い切れる人がいれば、おそらく因果関係の構図がわかっていないだけで、まだまだ下界にいる人です。

ただ、だからといって、単純に既にあるものと既にあるものをくっつければそれでいいのかという問題になります。

そのセンス自体が「オリジナル」の部分です。

残念ながら、物事には、きれいに整う方向性というものがあります。どこかで安定しようという癖のようなものがあります。

物を放り投げてもどこかで止まって落ち着くのと同じです。落ち着くまでは動いていますが、それは「安定するまで」の話です。最初は乱れながら動いても、ある規則性を持つようになります。

原子レベルでも同じことです。

そういうわけで、必ず方向性というものがあります。ということはパターンがあるということです。

それは色でも形でも音でも同じです。原子でもそうなのだから、たいてい思いつくものは全て調和の取れた最適なパターンというものがあります。それを崩しても、また安定に向かおうとします。そのバランスをどのようにしていくか、というようなことがオリジナルです。

音は基本的に12種類です。無理やり13種などにすることもできますが、バランスが崩れてしまいます。それはそれで実験的にはいいですが、調和の取れたものではありません。そういうわけで、古代人達は暇すぎたので、沢山のことをやり尽くしてしまいました。ほとんどのパターンなど出尽くしています。空間が変われば劇的に変わったりもするかもしれませんが、ひとまずはこの物理空間で生きているので、この物理空間、この体の感じ方に合わせなくてはいけません。

そんなことで、モデルとなる元の情報、つまりサンプルをどのように組み合わすかということになります。

その作業は、今ではパソコンでやったりするので、味のないものになったりしていますが、昔から人はそれを脳の中でやっているだけ、そのことに気づいているかいないかで、見渡せる高さは変わってきます。

また、サンプルの構造をどこまで細かく知ったかという点も関係してきます。サンプル数も関係しています。そして単純に数だけでなく、そのジャンル的バリエーション数も関係してくるでしょう。量と質ですね。それをどの深さまで情報を吸収したかというところが差になってきます。

これは全ての学問や物事も同じです。

手塚治虫氏は

「なるべくたくさんの一流に触れなさい」

と、よく言っていたそうです。「友達と酒を飲むよりも、そのお金で一流の映画を観に行こう」というようなことを言っていたそうです。

どうせ情報が組み合わさっただけ

どうせ情報が組み合わさっただけだとしても、その情報量が桁違いです。しかし、それはサンプルの数だけではありません。

深くまで情報を得れる、受け取り手の感受性も関係しています。

もう音楽単体の情報発信だけでは、それを読み取れる感受性が低下してきてるということなのでしょうか、ヴィジュアルや歌い手のキャラ作りなどとミックスして発信しようという流れが読み取れます。

それだけ聴覚単体で感じ取ろうとする能力が低下しているということです。

そのユーザー側に合わせていくとどんどん質は低下します。

少し話は逸れますが、ダウンタウンもデビュー当時から、当時の観客に合わせることはしなかったことは有名です。合わせられるのですが、合わせないということです。

90年代の書籍では、「ようやく世間が自分たちに近づいてきた」と語られています。

大瀧詠一氏の楽曲を分解しようにも、あまりそのサンプルになっているものがわかりません。ただ、おそらく知っていたなら、わかるかもしれません。世代が異なるのでなんとも言えません。

出尽くした要素

しかし、現代のお笑いを観ると、誰のどのコントや漫才のパターンのどの部分の要素が組み合わさっているかはすぐにわかります。

そういう意味で、ダウンタウンはやり尽くしてしまいました。

ダウンタウンのコントも具に分解すると、いくつかの要素があり、その組み合わせが各作品で異なっているというのが、数百回くらい観るとわかってきます。

残酷ですが、ほとんどやり尽くされています。

たいていは、いくつかの「笑いの要素」と、それをどんなモチーフに掛けるかという構造です。

残念ですが、すぐに消える芸人は、その中の笑いの要素の一つだけを、ストレートにモチーフに掛けているだけなので、わかりやすすぎるという点と、さらにすぐにモチーフが出尽くして、ネタ切れになるということです。

すぐにわかってしまうようなものは「パクリ」とされます。モチーフが大きく異なると最初はバレにくいですが、サンプル数の多い玄人には最初からバレています。

まあパクリではないのですが、「オリジナル性は低い」ということになります。そういう意味で「浅い」ということなります。

BUMP OF CHICKENも初期の頃は、ギターソロなんかが「あ、pillowsのあの曲」と一瞬でわかるようなものがあります。

そのベースとなっているものが何なのかわからないほど、要素となっているものがすぐに分からないようなもの、そういうものができてくれば、おそらくそれが「洗練」というものなのでしょう。

それがオリジナルで「洗練されたもの」として、評価された時に、「いやいやいや」と、ツッコミが入るようでは、評価した側が恥ずかしくなります。

僕はAIという人が、Storyという曲を出した時に、そして今でもその曲をカラオケで誰かが歌う時に、「George Bensonに土下座しろ」と心の中で思ってしまいます。本当に寒気がしますから、やめていただきたくなります。カラオケでは部屋から出るようにしています。

洗練度が低ければ低いほど、嫌でも寒気がしてしまいます。

「Nothing’s Gonna Change My Love For You」

という僕がこの世で最もロマンチックだと思っている名曲に謝れということです。

好きな曲を低い洗練度で焼き直されると、怒りが生じるものです。

それはパクリ楽曲だけでなく、安いカバーも同じことです。

ちなみに、なぜこの曲が、この話が出てきたかというと、このGeorge Benson氏の「Nothing’s Gonna Change My Love For You」と大瀧詠一氏の「幸せな結末」が、僕の中で世界一を競っているほどロマンチックな二大楽曲だからです。

 

Category:music 音楽

「大瀧詠一氏」への2件のフィードバック

  1. いつも大変興味深いお話しをありがとうございます。
    大瀧詠一氏の曲を初めて聴いたのは、高校生の時でした。
    音楽に詳しくない私は、「何て奥行きのある音楽だ!」と感激したことを覚えています。

    透明感があり力強く、時にささやくような氏の歌声がとても好きです。
    今でもたまに聴きますが、個人的には「恋するカレン」は何度聞いても名曲だと思います。
    氏の楽曲は「物語」だといつも感じます。

    加藤和彦さんはあまり存じ上げませんが、昔YMOの「増殖」と言うアルバムの中で「メケメケ」を
    歌っていたような記憶があります。
    イムジン河だと思うのですが、逆回転の発想は今でも凄いと思います。

    bossuさんはベースを弾くんですね。
    ギターよりも難しいと聞いたことがあります。
    ベースはバンドの中心と言うイメージが私にはあるのですが。

    では、引き続き勉強をさせて頂きます。

    1. 僕たち世代は時代的に概ね「幸せな結末」がきっかけのことが多いと思いますが、大瀧詠一氏の曲のおかげで世代をつないでもらった記憶がよくあります。
      宴会などにおいて違った世代の方々とのコミュニケーションのきっかけになったりして、少し嬉しかった思い出があります。
      加藤和彦氏についても同様です。

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