生きる苦しみについて書いたりしたので、わかりやすい苦しみとしての「いじめられること」について考えてみましょう。
以前「なぜ、人をいじめてはいけないのか」で、善悪基準からいじめがいけない理由などについて考えてみてもほとんど無駄ですよというようなことを書いてみましたが、いじめが良いとか悪いとかそうした絶対的な善悪基準や倫理道徳云々はさておいて、自分が不当ないじめにでも遭ったら、それはもう苦しくて嫌であることは明白であり、その状態から脱することは本能的な恒常性として議論の余地無く対応していかねばなりません。
社会全体的な「良い」とか「悪い」という議論のレベルではなく、「寒かったら上着を着る」というような感覚で、我が事としては一刻も早くその状態から脱することが先決です。国家においては明文化することなく個別的自衛権があるように、刑法上でも正当防衛という概念があるように、その状態から脱すること自体は善悪や適応範囲などを議論するまでもなくという感じです。
そこで今回は、あえて暴君と呼ばれることすらあるニッコロ・マキャベリの「君主論」から、我が事としてのいじめへの対応と対策について考えてみましょう。
「絶対的にダメなものですからやめましょうね」というあまり説得力のない議論やその帰結を元に問題を解決しようとしてもあまり上手くいきません。
いじめについては、君主と市民の関係における、愛されることと憎まれること、恐れられることと軽蔑されることといった概念を用いるとすごく理解がしやすくなります。
いじめから逃れるには君主論を学べ
ニッコロ・マキャベリの君主論は結構有名であり、たいていは「リーダーになりたい人」向けに一度は読んでおきましょう、という感覚で捉えられていたりしますが、君主側ならではの見事な洞察により、対人関係の基本を見事に捉えている名著でもあります。
もちろん、社会における対人関係には使えますが、そこで見られる思想のようなものは哲学的にはまだまだ浅いレベルになっています。が、義務教育の道徳考察レベルで満足できない人たちにはちょうど良いような概念の提示がなされています。
君主論を解説したような初心者向けの本もたくさんあると思いますのでそのエッセンスくらいは読んでみてもいいのではないでしょうか。
一応君主、リーダーのあるべき姿として語られていますが、対人関係においてリーダーでなくとも十分念頭に置いておくべき考え方です。あくまで、人と人との関係性についての構造を紐解くに留まるので、倫理・道徳や善悪は無視して考えるくらいでちょうどいいでしょう。
さて、君主論の中でいじめへの対応と対策についてキーポイントとなるのは、人から「愛されること」と「恐れられること」は問題なく、「憎悪」と「軽蔑」そして「侮り」のようなものは回避しなければならないというところです。
簡単に要約すると、人から愛されたり、敬われたり、慕われたりすることはもちろん良く、また「恐れられること」も問題はないという感じです。
そして一方で、人から憎まれたり、恨まれたり、軽蔑されたり、ナメられたりすることは、何としてでも回避しなければならない、という感じになっています。
シンプルに表現すると、「恐れられたとしても憎まれるな」という感じです。
いじめの発端
世間ではたまに「いじめられる方も悪い」というようなことを言う人がいますが、別に悪いというわけではなく、何かしら誰かに憎悪を与えたり軽蔑を与えたりしてしまったという感じになります。
いじめを防ぐ要因はたくさんありますが、「愛されること」というのも一つです。しかし愛されたからと言ってそうした人気を厄介目で見る人達も出てきます。ということでそれだけでは防ぐことはできません。
まず、基本的にはよほど恐れられている人でない限り、誰しもが順繰りで「いじられる」「ちょっかいを出される」ということが起こります。
そしてその時の対応で、本格的にいじめられるかどうかが決まってきたりもするという感じです。
例えば、冗談に対してプライドが先行して笑いで対応できなかったりすると、いじめられたりする可能性が格段に上がったりもします。
結構お笑い芸人の人などは「笑いに変えることでいじめられずに済んだ」というようなことを語ったりします。
また、漫画家の人でもイラストや漫画を書いたことでそれが評価され、いじめられずに済んだという逸話を語っていたりもします。
誰しもがだいたいは順繰りで矛先になり得るという感じですが、そうしたきっかけの時の対応で、本格的にいじめられてしまうかどうかが決まってしまうというような感じです。
我が事を振り返る
そういえば僕は単なる年齢を理由とした体育会系の年功序列に対して、小学生の時からおかしいと思っていました。あくまでその人の人格を評価した敬意が根拠となるべきだと考えていました。
そういうニオイが常にプンプン漂っていたからでしょうか、どこに行っても特に一つ上の学年の人や「少し先輩」くらいの人たちからよく集中砲火を喰らったりしました。
中学や高校、大学、果ては勤め人になった時、それら全てを振り返って見ても、だいたい少し上の人、特に「体育会系で少年ジャンプが好きそうな人」には徹底的に嫌われ、かなり上の人には徹底的に好かれるというような感じで過ごしてきています。
中学生の時は一つ上の学年の人五人に囲まれて、難癖をつけられたりもしましたが、通行人の人が警察に通報して特に何事もなく終わりました。
その後いつでも反撃できるようにと、カバンに鉄板を入れて自己防衛の準備をしたりもしていました。
しかし、友人のお兄さんを筆頭に、そんな僕を「かなり年上の人」たちが面白がってくれたおかげでそうした空気は解決しました。
地元の祭の時にそうした人たちにばったり会い、「学校はどうや?」と聞かれたので、経緯を話していると「そいつらしょうもないなぁ。年下の子を集団で囲んでいいんやったら、俺らもそいつらを囲みに行くわ」というような流れになり、その日のうちにそうした噂が広がって「一つ上の学年の人たち」は恐れを感じ、その後特に何も起こらなくなりました。
個人的には、次にまた囲んできたら鉄板で「仕返しをする気が起こらないレベル」までボコボコにする予定でしたが、十代の政治的な力で何とかなったという感じです。
憎悪と軽蔑が引き金となる
そんな感じで、どうせ僕の言うことを理解もできないような脳筋を諭してあげる必要もないと思っていたので、僕は武装したり政治力を駆使したり時に実力行使をすることで、少し歳が上の人からのいじめのようなものを回避してきました。もちろん同級生はだいたい友達なのでいじめられかけたことすらありません。
しかし、やはりいじめられている人たちを観察すると、「いじられることへの対応がまずかった」というものを越えて、憎悪を呼び起こすようなことを悪気なく能動的に為していたりしました。
例えば、親に買ってもらったゲームを自慢するだけしておいて、人にはやらせてあげないというような感じです。
例え本人の実力であっても自慢のようなことは憎悪と軽蔑を呼び起こすのに、家が金持ちだということを自分の実力かのように誇示する姿は、確実に憎悪と軽蔑を呼び起こします。ゲームを買ってもらえない人もいるからです。
そんな中、親のふんどしで「みんなに羨ましがられること」に快感を覚えている様は、たいていの人から強烈な憎悪と軽蔑を獲得することになるでしょう。
そうしたことを棚に上げて「いじめてきたほうが悪い」と主張し居直る程度だと、いくら善悪を主張しようがいじめは回避することができません。
回避するとすれば、「恐れられる」くらいしかないのです。
その「いじめ」は革命かもしれない
君主論的に考えると、そうした人に対するいじめは、ある種市民による「革命」です。
「憎悪と軽蔑」をふんだんに獲得しており、いわば「道楽君主」が革命により裁かれるのと同じであり、暴力ならば磔、無視されるなら島流しされるのと同じです。
そうした構造を棚上げして「いじめは絶対に悪い」とするのは、善悪基準で考えても早急すぎるような気がして来ないでしょうか?
いじめへの対応と対策
ということで、憎悪と軽蔑と「恐れられること」などをキーワードに現役のいじめへの対応と、今後のいじめへの対策を考えた場合、人から憎まれることや軽蔑されるようなことを避け、可能であれば愛されるように、そして恐れられるようにすることです。
最低限「憎まれないことと恐れられること」を確保するという感じです。
君主論の中では、市民の財産を奪おうとしたり、妻子に手を出したりすることを避けるという感じで語られたりしています。
そして考えようによっては、自慢という行為や変に関心を惹こうという行為は、他人の自尊心を奪うということにもなりかねません。もちろん自尊心は虚像ですが、世間ではそれを実体とし重要なものとして保持しているので危険です。
変な話ですが、いわば「憎まれたとしても攻撃対象とならないレベル」にまで恐れられていないといじめの対象となってしまうという感じになります。
そういえば小説で、「仕返しをしようという動機が生まれなくなるまで徹底的に叩け」というような台詞がありました。
恐れられる要因はたくさんある
ここで考えてみたいのが「恐れられること」の詳細についてです。こうした恐れられるための要因・アプローチは「暴力的な力」のみならずたくさんあります。
もちろん一番わかりやすいのが暴力的な力です。
肉体的な大きさや格闘技のスキルというものを筆頭に、武器を利用するというのがわかりやすいでしょう。ということで、無駄に体を鍛えている人もいるのではないでしょうか。
いじめの善悪は宙に浮いていますが、「自分がいじめられることは本能的に許されざる状況である」ということは、本能ベースで考えると議論の余地なく正当です。ということで、どのような手を使ってでも「恐れられること」を獲得するというのはある意味では正当性を持ちます。
いくら体が貧弱でも、家で爆弾を作ることはできますし、教室の机くらいは持ち上げられるのと思うので、それで殴ることもできます。
しかしながら、そうした力に依存しなくてもそれ以外の力を利用したりすることもできます。
そのうちで社会における公権力として代表されるのが警察などになります。またそこまでいかなくても、教師や上司といった権限レベルで自分よりも力の強い人たちに依頼をするという形も一つの力の使い方であり、力の弱い者同士が集団化するというのも一つの形です。
しかしながら、そうした人達による力もあまりうまく使えない場合があります。なぜなら、力を使って常に完全に恐れを抱かせることができるかというとそうもいかない場合があるからです。
力の効果は短期間だけにとどまり、そんな中、いじめてきた側と同じ空間にまた居続けなくてはいけないというような環境要因もあります。だから一筋縄ではいきません。
社会的な力を使って「仕返しという動機がなくなるレベル」までボコボコにするというのも一つですが、その相手と自分だけの空間ではなく、その周りの人たちとの関係性すら、その後の生活に影響を与えてきたりもします。
ということで、そうした力を用いた「恐れられること」は、万能ではありません。
人の心読む
そこで考えてみたいのが最強の「恐れられること」です。
それは、人の心読むということです。
自分の心に浮かんでいる全てを見渡すことのできる人がいれば、その人の目を直視するのが恐くなるはずです。
そして、そうした人の心を読む力を養うためには、まず己の心をよく読めるようになる必要があります。
ということで、人の心が読めるという力がつけば、同時に「憎悪や軽蔑」すらも起こさないような心に発達してしまうはずです。
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いじめに関しては善悪基準で考えられることが多いですが、因果関係を紐解かないと対症療法となってしまいます。
「自尊心への渇望感が他人の劣等コンプレックスを刺激し、革命を起こさせてしまう」
そんな感じで君主論的に考えてみると、意外とシンプルな構造であることが見えてくるはずですし、具体的な解決策もすぐに見えてくるはずです。
まあ今回は君主論を元に、人と人との心の関係性を政治的なアプローチで書いてみましたが、根本をたどると体育会系思想のようなものが「いじめる側」の劣等コンプレックスを形成しているということをお忘れなく。
いじめに関する善悪については「なぜ、人をいじめてはいけないのか」をご参照ください。
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