口の上手さだけでなく、人は自信にも感化されてうまく転がされてしまいます。妥当性ばかり追求している人より、ホラ吹きの方が大物のような人になっているというケースを実感している人も多いのではないでしょうか。
単に口が上手いということなら「それはスキルだからなぁ」と納得できそうなものですが、それが嘘であっても、大見得であっても、結局周りが感化されて嘘のように実現しているという場合があります。
ある種不公平に感じますが、それくらいに口の上手さの裏にあるような自信のようなものは強力なのです。そして相手を錯乱させるために権威性を利用したりします。「付き合いがある」ということ自体が嘘である中、有名人、有名企業などの名前を持ち出したりするわけです。
しかし普通は嘘を嘘と知りながら自信を持つということはなかなかできません。ということでそうした大ホラ吹きは、嘘を何とも思わないようなフレームを持っているか、自らをも騙すスキルを持っているか、というようなところになります。
口が上手いことを理由に「信用できない」と言われた
「モテより大切なこと 改」で触れていましたが、十代の時に「口が上手い」ということを理由に「信用できない」的なことを言われたことがあります。一応自信にも満ち溢れていたと思いますが、なぜかうまくコミュニケーションをとることができませんでした。
そんな事を言いだしたら、「文学作家や裁判官なども信用できなくなるじゃないか」と思いました。
おそらくその人の中では、「口が上手い=信用できない」という単純な公式を持っていたのでしょう。
それはそれで、「アホの一つ覚え」だと思いますが、その人に「信用できない」と言われて結局関係は続かなかったのでそれはそれで良かったと思います。
「上手く話せない」という場合を考えてみると、それは単に「緊張しているから」という理由だったりします。
国語表現が巧みであるかどうかというところは、語彙と感性の問題になるかもしれません。が、それが普通の会話であれば、緊張さえなければ特に言葉巧みとまでいかなくてもそつなくこなせるはずです。
16ビート漫才のように話す必要はないのですから、リラックスしていれば、話すテンポや国語表現はどうあれ上手く話せるはずです。
ということは、「口が上手い」を支えているのは、リラックスであり、「余裕」です。
大ホラ吹きはリラックスして「余裕」で嘘をついている
で、さらに大ホラ吹きについて考えてみた場合、リラックスして「余裕」で嘘をついているということになります。
ある種天才にしかできない芸当です。
そういうわけで「ホラ吹きの方が大物のような人になっている」という現象には不公平感がありましたが、「天才なので仕方がない」と考えるしかありません。
しかし、それは決して褒められたものではありません。
そして、その嘘の代償は、いずれ何かの形でやってくるでしょう。
それがすぐにはやってこないからといって、平然と過ごすことも「余裕」だと思いますが、嘘を重ねて存分に高められた後、すべての思い出が嫌な思い出になるような出来事が後に待っているかもしれません。
それは、現実的な現象としてかもしれませんし、意識がコントロールできないような状態になった時、その最期の時かもしれません。
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