利己主義対利己主義と、これはまあ面白みのあるタイトルです。
社会の中で議論されているような題材のことは、概して利己主義対利己主義で、社会目線の議論の中で、より優れた理論を武器に結局他人を説得しようとしているものにしかすぎません。
もし、「何が正しいか?」ということに対して思索が動き出したなら、次のように考えることをおすすめしておきます。
「これは私にとって正しいのか?」
ということです。
「社会性」を徹底的に排除する
何かの基準を元に行動を選択するということを常々しているはずですが、そうした基準を持つ際に「社会性」を徹底的に排除すべきなのです。
でないと、「民主主義が正しい」ということを洗脳されているゆえ、「社会で評価されているものが正しい」という他人に依存した形の倫理、人の生き方としての正しさを選んでしまうからです。
先日の「不殺生戒と人を殺してはいけない理由」で触れたような形で、社会というもの、善悪というものを一度排除して、まずは自分のことだけを考えていくのが望ましいでしょう。
それを元に「社会的なルールとして他人に強制していこう」という要素を一切排除して、「ただ自分はどうあるのか」ということを指針とすべく施策すると良いでしょう。だから見方によっては全てを無価値とするニヒリズムスタートのほうが、迷いはなくなるかもしれません。
そう考えると、「宇宙人はいるのか?」とか「宇宙はどれくらいまで広がっているのか?」とか「死んだらどうなるのか?」ということはあまり意味のある思索の対象ではありません。
それがわかったところで仕方ないことを考えて自己説得をするよりも、どうあれば自分の心は安穏になるのかを検討したほうが賢明です。
社会を変えてその結果を享受する形で心穏やかになろうという方法論は遠回りで、かつ、自分の状態を相手に依存する形になります。
で、これは逆に「何もしてはいけない」ということを示しているわけではありません。
宇宙人について考えたければ徹底的に考えてもいいですが、その結果が自分の何かに影響を与えるということを期待し、それで「今より良くなる」と考え、その裏で「自分はまだ不足している」と思うことこそが「ズレている」というだけです。
だからやりたいことがあればそれをやればいいのですが、だからといってその結果に煩悶するということを錯覚だと気づけばそれで良しという感じです。
利他的に対する賞賛の誤謬
人が行動を起こした場合などなど、利他的であればあるほど賞賛される風潮があります。しかしながらどのような行動でも回り回って利己的になるのです。
そして利他的であることが賞賛される裏側には、「誰かの利他的行動」の利益享受の可能性がその誰かではない自分にもあるというところです。
つまり、利他的であることを推奨している人は、他人が利他的な行動を取れば、自分に都合の良い動きをしてくれる可能性があると、内心何処かで思っているフシがあります。
だからこそブラック企業などでは「自己犠牲」が美徳であると吹聴しています。
しかしながら、どこまでも利己的であるならば結果として利他的と同等になります。
なぜなら、分離がなければ内も外もなく、同じだからです。
そうした構造を悪用して、利他的が美徳であることを「他人に強制しようとする人」は、悪徳の極みだと思って差し支えないでしょう。
あくまで「自分だけの世界として自分はどうあるのか」ということを考えれば、「利他的が美徳である」という一見普遍的な倫理であるかのようなものを用いて他人を利用しようなどとは考えないはずです。
だからそんなことを吹聴している人を信用するのかしないのか、ということすらさておいて、ただ自分はどうあるのかを検討すると良いでしょう。
利己主義対利己主義 曙光 90
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