弱っているものを助けよう、弱きものを守ろうとするのは、一般感覚として普段からあるような感覚ですが、時にこうした構造を利用して「弱っているふりをすれば何かしら相手に負担をさせることができる」という感じで自己都合を叶えようとする人もいるので困りものです。
「そうしたものには騙されまい」とすべてを遮断するというのも歪んだ極端であり、また、逆に全てにおいて手をかけようとするのも歪んだ極端です。
困っているフリをすることを含め「駄々をこねれば自分の願いが叶う」ということを経験則的に習得した人たちは、事あるごとに憐れみを乞うということをしてきたりします。
相手の要求をそのまま叶えることが正しいとは限らない
なるべくたくさんの人を幸せにというのはいいですが、相手の要求をそのまま叶えることが正しいとは限りません。
ギャンブル狂いにお金を渡すのは逆効果ですし、アルコール依存症の人に求められたからといってアルコール類を渡すというのはわかりやすい誤りです。
社会においては、ある時から「本気で訴えかければ相手はたじろいて自分の都合を通すことができる」ということが蔓延しはじめました。
訴えかけられた側としては「それほど本気で抵抗するほどのことでもないこと」であるため、徐々に譲歩していくということをしてしまいました。
一度目の譲歩は二度目の譲歩をも許す
しかしながら一度目の譲歩は二度目の譲歩をも許してしまいます。
「さすがにやりすぎだろう」と思った頃にはもう既に戻れないほどに押され続けた後で、気づけば相手の方が優遇されているという程度の構造にすらなっているということもしばしばです。
良心、罪悪感、慈悲につけ込んだ横暴な主張
世の中には人の良心と呼ばれるもの、罪悪感と呼ばれるもの、そして時に慈悲の心まで利用して、横暴な主張をしてくる人たちがいます。
それに惑わされないためには、ひとまず相手の感情や自分の中の自責の念のようなものに苛まれないように心がけなければなりません。
確かに論理が一貫しているようなことであっても、前提となるところが唯一絶対の確定要素ではないという場合がよくあります。
仮言命法的に「もしそれを望むならば」ということを前提に置くのはいいですが、相手の提案以外にもたくさんの代替手段があるということを忘れてはなりませんし、「確かにそうだが私に責任があるわけではない」とか、「感情は理解できるが、それを私に言われても困る」ということは常に念頭に置いておく必要があります。
本当に求めているものが満たされると関心がなくなり去っていく人たち
世の中には「本当に求めているもの」が満たされると関心がなくなり去っていく人たちがいたりします。
あれほど熱心に訴えかけていたと思ったら急に関心がなくなったかのように去っていくという感じです。
強い感情とともに訴えかけるので、「まあそれほど負担でもないからなぁ」とか「それほど抵抗するほどのことでもないからなぁ」と多少相手に付き合ったのはいいですが、ふとした時に「あれほど熱意があったのに何なんだ?」と思わざるを得ないような形で去っていきます。
これは社会において集団で何かを主張しているような人たちにおいても起こりますし、個人レベルで近寄ってくる人についても同様です。
本来は別のところにあるイライラであったり、自尊心が満たされていないという状況があったり、単に誰にも相手にされず股間が凝っているというだけなのですが、博愛にかこつけたような感じで社会的活動を通じてカタルシスを行っていたりします。
「それほど本気で思っているのなら」と思いつつも、何かの折に誰かに相手にされ、股間のコリがほぐれると急に関心が無くなり、去っていったりするわけです。
求めていた受容が手に入った途端に消えていく
同じように父性や母性による受容を求め、実際にはそうしたことが叶わないという状況の中にあって、仮止めとして誰かにすがるようにやってきたりする人もいます。
しかしながら、本題である元パートナーや実際の父母などと和解したりして不和が解消され、求めていた受容が手に入った途端に消えていきます。
「安穏の条件は無ければ無いほうがいい」というところから考えれば、本来は他を拠りどころせずというのが正しいのですが、条件化されている事自体には疑いをかけず、その場しのぎの踏み台として人を振り回しながら、本当に求めているものが手に入った途端に、何事もなかったかのように去っていくという人たちもそこそこいたりします。
友人を助けるかのごとく付き合うというのもいいのですが、感情的な押しに負けて横暴な要求を受け入れたりしだすと悲劇が起こります。
すべてのケースを十把一絡げにして考えて全て排除するというのも歪んだ極端ですが、そうした短期的なカタルシスの踏み台として利用されながら要求され、振り回されてしまうという場合もあることは事実なので、それを見ないということもまた歪んだ極端です。
―
人の痛楚む声いともあはれに聞えければ。
己が理性を保つべし。
義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。
最終更新日: