キリスト教には、何か東洋的なものと何か女性的なものがある。これは「神はその愛する者を懲らしめる」という思想の中にあらわれている。なぜなら東洋の女性たちは、懲らしめと世間からその身を厳しく隔離することとを夫の愛のしるしと見なし、このしるしが中絶すると不平を訴えるからである。 曙光 75
「誘惑者」で触れていますが、同級生のお母さんたちはみんなお母さんという感じですが、最近では「お母さんではなく一人の女性として」というような風潮になってきているのか、未だに「若い女」を目指そうとしているような雰囲気があります。
それと同時に「女性起業家(笑)」として、社会の中で活躍しようというような人も増えてきているように思います。特に女性が市長なんかのエリアでは、率先してそうした人を支援しようなんてな事をしています(それこそ差別だと思いますが)。
女性を家に閉じ込めておくということ自体は、別にしなくていいのですが、旧来から世界的に女性は閉じ込められ気味でした。
その根底として、感覚としては「野放しにするとロクでもないことが起こりやすい」というのがあるのかもしれません。
見方によれば、制限の中の方が社会が安定し、男女双方がトータルで幸せになれるのではないか、というようなことです。
エゴエゴしく横暴に
少し表に立つと、「家の中ででも禁煙にする」というようなことを条例化しようとするくらい、エゴエゴしく横暴になります。
個人的には、対立側への一方的な制限ではなく、双方目線で考えるべきなのです。
おそらく一番問題となるのは、抽象化して俯瞰する能力があまりないことです。
あくまで自分の感情的都合、それを最優先して他人の立場や環境など御構い無しに土足で上がって荒らし、その場のブームが去れば何事もなかったかのように振る舞うのが通例です。
平等にある中で選ばれていないだけ
以前、選挙ポスターで「世の中の半分は女性だ、だから国会議員の半分は女性であるべきだ」というようなものがありました。
といっても、票を取れずにどこかに消えてしまいましたが、例えば明治時代のように、選挙権も被選挙権も制限されていた時代であるのなら、そういう主張もいいのかもしれませんが、選挙権も平等にある中で「選ばれていないだけ」なのに、不平等を訴えるのはおかしいというところに早急に気付くべきではないでしょうか。
つまり「女の意見は調べた結果と自分の都合」「女ぎらい」で触れたような、自分たちの都合しか考えられないケースが圧倒的に多いのです。
全然幸せそうに見えない
芸術家でも起業家でも頭に「女性」というものをつけること自体がおかしいはずです。
芸術家も起業家という言葉には性別的な属性はついていません。
少し前まで「女医」や「看護婦」という言葉は男女差別だ、と言ってきた割に、起業家に関しては、なぜか「女性起業家」という言葉を使いたがります。
メス同士の自尊心的争い
それは同性の人たちに対して「女性なのに社会的自己実現してる私すごいでしょ?」というようなものを主張しているようにしか思えません。
いわばメス同士の自尊心的争いにしかすぎないのです。
そういった感じで、無闇矢鱈にキレイになろうとしたり、社会的ステータスをつけようとしている様自体が、どうも「全然幸せそうに見えない」のです。
「背後の問題」で触れていましたが、名刺に代表取締役と書きたいがために法人成りしようとする人もいるくらいです。まさにメス同士の自尊心的争いで「一歩抜きん出よう」という感じにしか思えません。
欲と同性に対する変な闘争心
概ね女性は、欲と同性に対する変な闘争心があまりに強いですから、下手に野放しにするとロクでもないことが起こるのではないか、というようなことが歴史の中で感覚的に組み込まれていたのかもしれません。
昔よりはかなり制限がなくなってきましたが、その一見差別的ともとれる制限は、こうした横暴さを発端とするトラブルを未然に防ごうとする歴史的な背景があったのかもしれません。
ただ、セシルがパラディンになるように、ある領域を超えた人は非常に慈愛に溢れ、聖母のようになります。
魔女を目指すか聖母を目指すかはその人しだいです。
ヨーロッパ的でなく、高尚でない 曙光 75
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