キリスト教の中から、哲学的に反対する大きな民衆的な抗議をも聞きとることができる。古代の賢人たちの理性は、人間に感動を思い止まらせた。キリスト教は感動を人間に再び与えようとする。 曙光 58 前半
「キリスト教と感動」ということで、またまたニーチェの好きなキリスト教系の話題です。たいていニーチェがキリスト教のことを語る時、イエスのことではなく、パウロ以後宗教化されたキリスト教のことを指していることがほとんどです(最初のキリスト教徒)。
キリスト教徒、特にキリスト教系新興宗教・カルト宗教においては「新約聖書に書いてあるから真理である」などということを平気で考えていたりします。
「聖書は真理」という発想の上で聖書解釈
そしてそうした「聖書は真理」という発想の上で、カトリック系なら教会が聖書解釈をし、プロテスタント系ならその解釈を自分で行うという感じですが、いずれにしても新旧約聖書の記述自体には疑いをかけていなかたりします。
しかし真理とはそういうことではありません。新約聖書に書いてあるから真理であるとか、旧約聖書に書いてあるから真理であるとかそういうことではないのです(真理とは何か?)。
それでは、少し前に書いた「空想的な理想は何を推測させるか」の続編的に「感情を軸に真理だと勘違いする人」についてでも書いていきましょう。
勝手に真理化されていったことに腹を立てた
それがスッキリした気持ちであれ、何某かの達成であれ、願望と実現というようなセットで感情が起こり、そういったパターンで幸せを感じるのが普通だと思われています。
で、こうしたものは相対的な事柄であって、実は穴を掘って埋めているだけです。
そんな時に感情を指針として、正しいとしてしまうこと自体がナンセンスだということをニーチェは口を酸っぱくして言いたいのだと思います。
普遍的な理は「こっち派」とか「あっち派」とか好き嫌いで決まるものでもなければ、当然に感動したとか、そういった感情で決まるものでもありません。
キリスト教の登場以降(イエスとは言っていませんよ)、そうしたものをパッケージ化して「難しいことは考えなくていい。ただ信じていれさえすれば」みたいな感じになって、実際に感動なんかがあったりするため、「そうなんだ。これが正しいんだ」と、あまり突き詰めることもなく勝手に真理化されていったことに腹を立てたのでしょう(ニーチェがね)。
少なくとも紀元前の古代ギリシャの哲学者たちは、純粋に哲学をしていた、というようなことが言いたいのでしょう(ニーチェがね)。⇒哲学と解釈
今、何を感じているか
で、「神様はいるんですかいないんですか?」みたいなことを言う人がいますが、いてもいなくても一緒です。
どんな証拠を見せられても、それが確定的な証拠とはなりえませんし、幻覚で光を見たことや、急に歓喜に包まれたみたいなことも別に何ら証拠にはなりません。
要は、自分が今何を感じているか、というところしかなく、その今も瞬間的に流れていきます。
たったそれだけのことです。
キリスト教と感動 曙光 58
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