どんなに新しいよい作品でも、その時代の湿った空気に触れている限り、― それはさらに、市場や、敵や、最新の意見などの匂いを、明日をも知れぬ無常なすべてを、いたく身につけているからこそ― その最小の価値しか所有しないということを、諸君は気づかれなかったのか?あとになると作品は乾燥し、その「時代性」は死滅する。 曙光 506 中腹
湿度が高い京都では、乾燥を欲することがよくあります。
湿度が高いと息苦しくなる上に、汗が乾かず同じ気温でも暑く感じ、そして実際に体に熱がこもりますからかなり不快です。
最近、道を歩く度に発見する外国人が軒並みハーフパンツであることに気づいてから、注目するようになったのですが、やはり毎度毎度軒並みハーフパンツです。
まれに違う人がいるのですが、近づいて会話を聞いてみると、外国人を連れて歩いている日本人でした。
京都の湿気に耐えられないのでしょう。少なくともリゾート地のような快適さはありません。
さて、「よいものすべてに必要な乾燥」です。
世代間同士の争い
いつの時代も世代間同士の争いは絶えません。
これは構造上仕方ないのでしょう。
どちらかというと、「世代」は自分を定義する上での一つのポイントとなりうるので、世代に対する賞賛・非難などの意見があると、その意見の評価を自分と同化して考えてしまい、そして、比較的な問題になった時に何とか優位性を見出そうとする、という構造があるからです。
それは、自尊心の回復にあたり、自分という自我からプラスアルファで一回り大きな「世代」という自我を持ちだして比較優位を考えるからこそ起こる錯覚です。
そういった意味で、議論自体が本来はナンセンスです。
仮に何か世代に関する意見があったとしても、その影響を自分には与えないということが、アイツの引力からの脱却の良い訓練になります。
これは世代だけでなく、国家単位などでも同じです。
確かに属性としては日本人かもしれませんが、だからといってどうということでもありません。
日本人だからといって、どこかしら日本と同化して、変な盛り上がり、変な闘争心、無駄な煩いを起こす必要などないのです。
日本と同化する必要はない「美の国は一層大きい」
最近の流行り
ところで、「最近の流行り」というものは、何時の時代でも怪しいものです。
たとえばその流行りが20年位経って、惨めには映らないか、ということを考え、思いを馳せると、流行に踊らされるということは防げるかもしれません。
今から20年前というと、1996年頃です。
おそらくその時代ならば、「チョベリバ」という言葉がありました。
同時にMr.Childrenなど、今でも活躍しているアーティストがたくさん曲を作っていたころです。
当時「新曲」だったMr.Childrenの曲は今でも大丈夫ですが、「チョベリバ」はたまりません。
再評価しようにもできません。
まだ小学生か中学生くらいでしたが、その寒気へのおそれは読み取れたものです。
一時、「からの~からの~」と言っていた人は、最近その言葉を使ってくれません。
そんな人を見かけたら「もう『からの~』は言わないの?」と聞いてあげてください。
おそらく最近の類似する何かを教えてくれるでしょう。
そういう人だとわかったならば、フェードアウトするように去る必要があります。
そんな人と関わっていても、「その場の享楽」、一過性の付き合いにしかならないことは目に見えているのですから。
よいものすべてに必要な乾燥 曙光 506
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