死後を経験したことがないからこそ、「夢の中では死なない」なんてなことが言われることがあります。
「死んだ後、『私』はどうなるのだろう?」
「死後の世界はあるのだろうか?」
そんなことを思ってみたところで経験したこともないこと、経験し得ないことはいくら考えても想像の域を出ません。
誰がどう死後について語ろうと、その人は死んだことがないので死後のことについては推測の域を出ることがありません。
「死んで生き返った」ということを語ったとしても、それは死んでいないということになります。
だいたい胡散臭い宗教が心の隙間に入ってくるときは、病気を含めた死への恐怖、身内が死に瀕している時、マルチネットワークが心の隙間に入ってくるときは、ギャンブル的スケベ心か自尊心が傷ついていた自分が認められ、社会的賞賛を受けられるかもしれない逆転チャンスと勘違いする時と相場が決まっています。
死後を想起する苦しみ「死苦」
さて、死後を想起するということで、だいたいは不安感を煽られます。
しかしながら理屈で言えば、死後を経験した人が今生きているというのは、矛盾することになりますので、生きている限りはどう転んでも想像の範囲を超えることはありません。
「死後を怖れること」は、生きているから起こるという感じになります。
死後のことなど誰にも語ることはできません。仏教上の「死苦」という概念においても、死ぬこと自体が苦しみであるというわけではなく、死を想起する苦しみであり、生きている今起こる苦しみです。
死ぬ苦しみ、死の苦しみとしての意味を含みつつ、死を迎えることからは逃れられないということを示し、同時にそうした事実の中に起こる生への執著から起こる苦しみというような構造を持っています。
聖典を解釈するのはその人
何かの聖典のようなものに書いてあったとしても、書いてあることを生きている人間が解釈し、その書物の正当性を認める認めないもその人次第ですから、厳密な根拠と成り得ることはありません。
死後についても聖典を根拠とするのはその人ですし、それをその人の頭の中の判断で認めているということにしかならず、いくらあがいても客観的な絶対性など持ち得ないのです。
死んだ後どうなるかについての記述
「死後あなたはこうなります」なんてなことが書いてあっても、それには再現性がなく、想像の可能性の一つにしかなりえないという感じです。
死んだ後どうなるかについて何か書いてあったとしても、もしかしたら方便として書いてあるだけかもしれませんし、本当のところがどうなのかは考えても思考の範囲を超えることはありません。
超えたと思っても、超えたと思っているだけです。そうなると、カルトの領域になります。
で、実際はどうなのかという感じのことですが、「わからないですし、無関心です」ということで十分です。
来世信仰的なもの
ところで、来世信仰的なものについては、おかしな要素が幾つかあります。「魂は永遠だ」と言う感じで、天国、緑園、極楽浄土、呼び方はどうあれ、現世を苦とした上で来世に期待を寄せる系のやつですが、「あれほど何かを信仰しているわりに…」と言う感じでおかしな要素を含んでいます。
それは、今現在ですら何ともできないのに、なぜ「来世だけ」はコントロールできると思うのか、そして、神の領域があったとして、どうして神の領域を子羊側がコントロールできると思うのか、ということです。
ということで、もしそんなことを信仰している人がいるとすれば、いっそ「丸投げ」するくらいでいかがでしょうか?
丸投げ
それは丸投げすることが条件というわけでもなく、単に丸投げです。
死後についても丸投げです。
「いやー、丸投げしていて『そんな不遜ではいけない』と思われたら困るよ」
と思うとすれば、それは根底に恐怖心があります。
そして、その恐怖心は裏を返せば不信です。
まさにアイツの仕業といった感じです。
仮にもし100%信じ切っていると思えば「○◯しなくては」という焦燥感を伴う条件は一切なくなるはずです。
何も意識せず当たり前になってこそ、信じ切っているという状態ですからね。
自然と息をする感じで、「戒律」をこなしているはずです。
でも「これは戒律で定められているから」と「考えて」やる分にはどこかに懐疑があります。
それこそがひとつの煩悩、といった感じでしょう。
「死後。」 曙光 72
脱洗脳のきっかけを作るという目的のため、洗脳カルト宗教の勧誘に来た人に対して同じようなことを言ってみました。御本人は信仰の実践とか善意で宗教勧誘にやってきていますが、むしろ根底に恐怖心があり、洗脳されているからこそそうした勧誘行動を為しているとも考えられるからです。
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