タグ別アーカイブ: 論理

論理に関すること

皮肉骨髄から考える「人の意見」

皮肉骨髄から考える「人の意見」ということで、皮肉の語源となっている達磨大師の「皮肉骨髄」の逸話から、人の意見をどう受け止めるべきかということについて考えていきましょう。 皮肉といえば京都の文化であるということで「現代人の皮肉」では京都の皮肉文化について触れていましたが、元々皮肉という言葉は、達磨大師が弟子に対して行なった最終試験の逸話が元となっています。 皮肉骨髄 知っている人は知っているような話ですが、「僕が伝えたかったことは何か、それを示してみなさい」をいう最終試験で、4人の弟子がそれぞれ異なったアプローチで回

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洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みた

洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みてみました。宗教勧誘を論破して撃退するという感じではなく、相手のフレーム合わせて、対機説法をしてみるという感じです。 普通は宗教勧誘に対して上手く断るという感じだったり論破して撃退するという感じだったりするでしょうが、僕の場合は目的が少し違っていて、追い返すことではなく、短時間で脱洗脳のタネを撒いておくことです。 先日、Twitterでこっそりつぶやいてみましたが、ほんの少し前の休みの日に我が家に宗教勧誘の人がやってきました。 それで玄関先で話すことになったので

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合理化や最適化が機械にできる限界

AIがすごいとか、少し前であればIT化がすごいとか、そうした事が世の中でよく囁かれますが、「合理化」や「最適化」が機械にできる限界であり、結局大切なことは文語ではなく口語でないと何ともならないというようなことについて触れていきます。 哲学カテゴリでも会社経営と商いカテゴリでも良かったのですが、抽象的な感じなので雑記にしておきます。 まず最初に、新世代に対する旧世代的な後ろ向きの考えではないということに注意してください。 合理化や最適化の意味するところ まず合理化や最適化の意味するところについて一応再考しておきましょ

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克服という目線は対象の肯定と意図の抵抗になる

克服という目線は対象の肯定と意図の抵抗になるという感じで、よくありがちな「克服しよう」という方向性自体が、目的と逆行してしまうというパラドクスについてでも書いていきます。 「うつを自力で克服する」では方便的に便宜上克服という言葉を序盤に使っていますが、苦手の克服にしろなんにしろ、「克服する」という考え方自体が、対象に対する執着と「自分への影響力の肯定」になってしまい、結果的により盲目的に克服とは逆行した働きをしてしまうという感じです。 そう言えば、検索流入を見ているとニヒリズムの克服であったり、ルサンチマンの克服で

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ネット空間での人格

古くは掲示板、最近では動画共有サイトや匿名系SNSなどなどでの振る舞いがよく問題になっていますが、考えてみるとネット空間においては、少なからず人格が変容しているのではないかということを思っています。 一部の人において、それは「その人のその部分」というような一部的なものではなくて、インターネットに触れている時は全く別の人格になっているというような感じです。 匿名性がある方が、普段の主要な社会的役割の制限なく自由に活発な議論ができるというメリットがあります。 例えば、会社勤めの人で性同一性障害のある人が実名でそうした話

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自由意志と洗脳

自由意志と洗脳ついて書いていこうと思います。 自由意志を尊重したいのは山々ですが、まず基本的に自由意志というものはありません。もし、自由意志があるとすれば、それはアイツこと自我の領域を脱しています。 自由意志とは何かを捉えるとすれば、「意志が自由である」ということになりますが、哲学的に見るとそうした意志自体がオリジナルであるのかどうかが疑わしいはずです。 行為を客観的に見た場合、選択肢としての自由はあるように見えますが、意志決定における方向性として「どの選択肢を選ぶか?」というもの、主観的な意志、主観的な選択は本当

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哲学と解釈

哲学することと哲学を学ぶことは大きく異なり、また哲学することと解釈することは大きく異なっています。 ではそれらは何か違うのでしょうか? その根本的な違いは、ある具体性を持ったものの内側を見ようとすることと、具体性を突き抜けて、より抽象化していくことにあります。つまり、具体性を包括しつつより全体的で統合された地点から自己解釈を再構成するということです。 特別企画の曙光(ニーチェ)完了記念ということで、何かニーチェっぽいことでも書いてみようかなぁと思っていましたが、すぐには思い浮かばず、お題を無意識に任せていました。が

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他人を喜ばせる

人を喜ばせることはなぜすべての喜びにまさるのか?― われわれはそれによって自分自身の五十もの衝動を一度に喜ばせるからである。ひとつひとつのものは極めて小さな喜びであるかもしれない。しかし、もしわれわれがそれらすべてをひとつの手の中に入れるなら、これまでかつてなかったほどわれわれの手は一杯になる。― そして心も同様である!― 曙光 422 人を喜ばせる最たるものは、自分が喜ぶことです。 人が喜んだところを見て喜ぶのが正しいのであれば、他人のそうした行動を受け入れて、その人の行動の正しさを示すことも逆説的に「人を喜ばせ

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道徳に対するドイツ人の態度

ほかならぬこの民族に満足を与えるのは、いかなる道徳であろうか?たしかにこの民族は、その心から服従癖が道徳の中で理想化されてあらわれることをまず望むであろう。「人間は、無条件的に服従することの出来る何ものかを持たなければならない。」― これがドイツ的な感覚であり、ドイツ的な首尾一貫性である。人はすべてのドイツの道徳学的の根底においてこれに出会う。 曙光 207 中腹 一部抜粋 なんだかんだで、いまだに明晰夢のようなものをよく見ます。寝る前や起きる直前も多いですが、おそらくその間であろう時間帯にもよく見ます。 つい先日

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最終的な反駁としての歴史的反駁

昔、人々は、神が存在しないことを証明することを求めた。 曙光 95 序 西洋的な方法論は、論理的な証明をやたらとしたがりますが、最終的に行き着いたポイントをよくよく見渡してみると、世界各国の土着の伝承、民話に隠されたメタファーと同じだった、というようなことがよくあります。 アメリカなどの最新研究の成果としてよく騒がれているような、哲学的な分野や認知科学の分野の方法を見ても、「そんなことは数千年前から既に説かれている」というようなものが多くあります。ただ、その頃の説明は、隠喩的でわかりにくかったというだけで、「何をい

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第1100回投稿記念

これで1100記事目になります。1100回目の投稿ということで「第1100回投稿記念」です。 ZERO STAGEで少し嵩増しされた感はありますが、前回の第1000回投稿記念は、2017年9月20日で、前回からの100記事は、その前と同じくまあまあの速度で投稿したという感じです。 そういえばもう少しするとロングラン特別企画「曙光」が終わります。どうせならということで、題目終了後も多少注釈ページや「訳者あとがき」などからエッセンスを見つけて何かを書いてみようかなぁと思っています。 さて、常連さんいつもご高覧ありがとう

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生贄の狡猾

身を捧げたある人から欺かれようと思い、そうであってほしいとわれわれが望む通りの姿をわれわれに見せざるを得ないような機会を彼に与えるのは、悲しい狡猾というものである。 曙光 420 犯罪者や自殺者などは、現代における生贄のようなフシがあります。 ある人が見栄のため欲のためにしたことが誰かを傷つけ、その傷ついた誰かは怒りのためにまた誰かを傷つけ、そうしているうちにある人は理性の限界を超え、犯罪や自殺というようなことにたどり着くのだと思っています。 Mr.脳筋こと孔子は、倒れている人を見た時に「これは政治が悪いなぁ」とい

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ダナエーと黄金の神

それとは反対の傾向の方を一層よく説明しそうな状況にありながら、現在人々を犯罪者たらしめるこの極端な焦燥感は、どこから来るのか?なにしろ、この人は不正な秤を使用する。あの人は、高額な保険をつけたあとで、自分の家に放火する。 曙光 204 序盤 曙光の注釈によるとダナエーは、ギリシア神話の中のアルゴスの王アクリシオスの娘ということのようです。 ということで、そのあたりについては知らないので、黄金の神的なところから始めていきましょう。 資本主義について「洗脳だ」というようなことをたまに言っていますが、おそらくほとんどの人

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隣人をもこえて

何だって?真に道徳的なものの本質は、われわれの行為が他人に及ぼす身近で最も直接的な結果を注目し、それに従って決心することにあるというのか?これは狭い小市民的な道徳であるにすぎない。 曙光 146 序 いちばん身近な「隣人」は、家族ということになりそうですが、世の中では家族がいない人もいるので、隣人とは常に接するような身近な人という感じになりましょうか。 僕は昔から実際の家族が一番大事だということを思ったことがありません。 それが何故だったのかはわかりませんが、あまり家族というものに執着自体が無かったのでしょう。 と

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「利己的でない!」

あの人は空虚であって充実することを望んでいる。この人は満ちあふれていて空になることを望んでいる。― 双方とも、そのため彼らの役に立つ個人を求めるように駆り立てられている。そしてこの過程は最高の意味で理解されたとき、どちらの場合も、愛、という一語で呼ばれる。― 何だって?愛は利己的でないものであろうか? 曙光 145 利他精神を賞賛しようが、どこまでいっても利己的でありつつ、利己的であることを突き詰めると利他的にもたどり着く、というのが本当のところです。 「利己的でない」ということは、通常の対義概念で考えると利他的で

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最悪の敵はどこにいるか?

自分の仕事を立派に果たすことができ、そのことを意識している者は、その敵に対して大ていは和解的な気分を抱いている。しかし、別個の立派な仕事をもっていることを信じていながら、それを守ることに巧みでないということが分かると、― 自分の仕事の敵対者に対する怨恨の念にみちた和解できない憎しみが生まれる。― 各人はそれに応じて、自らの最悪の敵がどこで求められるかを見積もるがよい! 曙光 416 人類史上、最も優れた発明は「ゼロ」の発見であるということを言う人がいます。しかしながら一方で、その「ゼロ」は、数学的には偉大な発明であ

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利己主義対利己主義

利己主義対利己主義と、これはまあ面白みのあるタイトルです。 社会の中で議論されているような題材のことは、概して利己主義対利己主義で、社会目線の議論の中で、より優れた理論を武器に結局他人を説得しようとしているものにしかすぎません。 もし、「何が正しいか?」ということに対して思索が動き出したなら、次のように考えることをおすすめしておきます。 「これは私にとって正しいのか?」 ということです。 「社会性」を徹底的に排除する 何かの基準を元に行動を選択するということを常々しているはずですが、そうした基準を持つ際に「社会性」

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罪としての懐疑

キリスト教は円を完結するために全力を尽くした。そして懐疑はすでに罪であると告白した。人は理性なしで、奇蹟によって、信仰の中に投げこまれるべきであり、さてそれから信仰の中を、最も澄み切って明白な活動舞台にはいったように、泳ぐべきである。 曙光 89 前半 「懐疑はすでに罪である」という構造は、カルトを含め世界中の宗教によくありふれている構造です。 「疑うということは信仰心がない」 そういって、考えることをやめろ、という感じにもっていきます。 これは一方で正しく、一方で誤りです。 「疑い、考える」ことで洗脳やマインドコ

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学習と演繹

なんだかんだで教育関係者も身の回りにちらほらいて、教育というか学習について相談を受けることがあります。 実はいわゆる勉強というものがそれほど難しいものではないのですが、出だしがフラフラしているからこそ難しく見えてしまうという事がよく起こっています。 学力というものをつけていくにあたって、その「学力」とは何かというところをつかんでいかないと、おそらくフラフラした細切れの寄せ集めになってしまうでしょう。 「学力」と「答えが決まっているような問題」と「演繹」 では学力とは何なのか、それは単に何かの対象について全体的な印象

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道徳教師の虚栄心

道徳教師が全体として成功することが少ないのは、彼らがあまりにも多くのものを同時に望んだこと、すなわち、野心に燃えすぎていたことで説明される。彼らはあまりにも快く、万人に対する処方箋を与えようとした。 曙光 194 序 万人がこぞって理解できるような道徳というものはなかなかありません。道徳が倫理的なものであり、社会の中の関係性を示すようなものだからというのがその最たる理由でしょう。 ともすれば、全体に適用するのか個に適用するのかというような尺度を元に、功利的・数量的に全体を包括しているもののほうが優れているというよう

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聖職者の襲撃

「君はそれを自分自身で決着をつけなければならない。なぜなら、それは君の生命の問題であるから!」― こう叫んでルターが跳びかかってくる。首に短刀がつきつけられたようにわれわれは感じるだろう、と彼は思う。われわれはしかし、高級でより思慮深い人の言葉で、ルターを近づけない。「あれこれのことについて、全く意見を立てず、こうしてわれわれの魂から不安を免れさせるのは、われわれの勝手である。なぜなら、物自身は、その本性上、われわれからいかなる判断をも強奪することはできないからである。」 曙光 82 哲学的・倫理的な格言は、時に自

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われわれの自由になること

われわれは園芸家のように、自分の衝動を思いのまま処理できる。そして知る人は少ないが、怒りや、同情や、思案や、虚栄心などの芽を、格子垣の美しい果実のように実り多く有益に育てることができる。 曙光 560 序 僕は昔から怒りをエネルギーに変えます。仕事関係でも革新的なことが起こる時は大体怒りの爆発的なエネルギーを昇華した時と相場は決まっています。 それは誰かに対して攻撃をするというようなことではなく、「そうした人たちのせいで不利益を被っている人たちがいる現状」というものに対して怒りのパワーが湧き起こってくる感じです。

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過度を避けよ!

到達することのできない目標つまりは自分の力に余る目標を立てることによって、少なくとも自分の力が最高度に緊張したとき達成できるものに到達しようとすることが、何としばしば個人に勧められることだろう!しかしこれは実際それほど願わしいことなのか? 曙光 559 前半 「目標を立てよう!」ということは学校であれ、会社の営業部であれ、いつでもどこでもよく行われていることですが、目標が具体的で近いものは、それがある意味でまあまあ困難そうなものでも、設定の仕方としてはあまり推奨されるものではありません。 そうした設定は、すごく抽象

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すぐれた四つ

われわれと平常われわれの友人であるものに対して誠実、敵に対して勇気、敗北に対して寛容、常に― 礼儀。四つの主徳はわれわれにこう望む。 曙光 556 いきなりこんなところで、疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し、といったように戦国武将のような項目になっています。 だいたい「やばい」とされるのが、こうした標語を社長室に飾っている人です。ブラック企業に限って、「十訓」みたいなものを掲げていたりします。 「従業員を人間として正しい道に導くことが私の使命だ」という感じで思っていた

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いわゆる高級!

諸君は、同情の道徳はストア主義の道徳よりも高級であると言うのか?証明せよ!しかし、道徳の「高級」と「低級」とは再び道徳的な尺度では測られないということに注意したまえ。なぜなら、絶対的な道徳というものは存在しないからである。そこで物差しはどこかよそから手に入れたまえ。― さあ気をつけて! 曙光 139 何かを判断しようと思うと基準が必要になり、その基準はその枠内以外にしておかないと、判断がおかしくなることがよくあります。 「いわゆる高級!」というタイトルですが、引用にもあるように高級があるからには低級などという概念が

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