タグ別アーカイブ: 論理

論理に関すること

その幸福もまた輝かせる

実際の空の濃く輝く色調にどうしても達し得ない画家は、彼らが風景のために使用するすべての色を、自然が示すよりも若干色調を低めて選ばずにはいられないように、またこの技巧によって彼らが、類似した光彩と、自然の色調に対応する色調とに再び達するように、幸福の輝く光彩に達し得ない詩人と哲学者もまた、何とか切り抜けて行かねばならない。 曙光 561 前半 生きていると「嫌だなぁ」と思う瞬間も多々あります。しかしながらそれがコントラストとなったり、また

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学習と演繹

なんだかんだで教育関係者も身の回りにちらほらいて、教育というか学習について相談を受けることがあります。 実はいわゆる勉強というものがそれほど難しいものではないのですが、出だしがフラフラしているからこそ難しく見えてしまうという事がよく起こっています。 学力というものをつけていくにあたって、その「学力」とは何かというところをつかんでいかないと、おそらくフラフラした細切れの寄せ集めになってしまうでしょう。 「学力」と「答えが決まっているような

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道徳教師の虚栄心

道徳教師が全体として成功することが少ないのは、彼らがあまりにも多くのものを同時に望んだこと、すなわち、野心に燃えすぎていたことで説明される。彼らはあまりにも快く、万人に対する処方箋を与えようとした。 曙光 194 序 万人がこぞって理解できるような道徳というものはなかなかありません。道徳が倫理的なものであり、社会の中の関係性を示すようなものだからというのがその最たる理由でしょう。 ともすれば、全体に適用するのか個に適用するのかというよう

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聖職者の襲撃

「君はそれを自分自身で決着をつけなければならない。なぜなら、それは君の生命の問題であるから!」― こう叫んでルターが跳びかかってくる。首に短刀がつきつけられたようにわれわれは感じるだろう、と彼は思う。われわれはしかし、高級でより思慮深い人の言葉で、ルターを近づけない。「あれこれのことについて、全く意見を立てず、こうしてわれわれの魂から不安を免れさせるのは、われわれの勝手である。なぜなら、物自身は、その本性上、われわれからいかなる判断をも

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われわれの自由になること

われわれは園芸家のように、自分の衝動を思いのまま処理できる。そして知る人は少ないが、怒りや、同情や、思案や、虚栄心などの芽を、格子垣の美しい果実のように実り多く有益に育てることができる。 曙光 560 序 僕は昔から怒りをエネルギーに変えます。仕事関係でも革新的なことが起こる時は大体怒りの爆発的なエネルギーを昇華した時と相場は決まっています。 それは誰かに対して攻撃をするというようなことではなく、「そうした人たちのせいで不利益を被ってい

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過度を避けよ!

到達することのできない目標つまりは自分の力に余る目標を立てることによって、少なくとも自分の力が最高度に緊張したとき達成できるものに到達しようとすることが、何としばしば個人に勧められることだろう!しかしこれは実際それほど願わしいことなのか? 曙光 559 前半 「目標を立てよう!」ということは学校であれ、会社の営業部であれ、いつでもどこでもよく行われていることですが、目標が具体的で近いものは、それがある意味でまあまあ困難そうなものでも、設

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すぐれた四つ

われわれと平常われわれの友人であるものに対して誠実、敵に対して勇気、敗北に対して寛容、常に― 礼儀。四つの主徳はわれわれにこう望む。 曙光 556 いきなりこんなところで、疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し、といったように戦国武将のような項目になっています。 だいたい「やばい」とされるのが、こうした標語を社長室に飾っている人です。ブラック企業に限って、「十訓」みたいなものを掲げていたりしま

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いわゆる高級!

諸君は、同情の道徳はストア主義の道徳よりも高級であると言うのか?証明せよ!しかし、道徳の「高級」と「低級」とは再び道徳的な尺度では測られないということに注意したまえ。なぜなら、絶対的な道徳というものは存在しないからである。そこで物差しはどこかよそから手に入れたまえ。― さあ気をつけて! 曙光 139 何かを判断しようと思うと基準が必要になり、その基準はその枠内以外にしておかないと、判断がおかしくなることがよくあります。 「いわゆる高級!

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最も些細なものでもすでに十分である

最も些細なものでもすでに十分強くわれわれに印づけられていて、― どっちみちわれわれはそれらを免れることはないのだ、ということが分かったら、われわれは数々の出来事から遠ざかるべきである。― 思想家は、彼らが一般になお体験しようとする事物のすべての大よその基準を、自分の中に持たなければならない。 曙光 555 経験したことは全て無意識が覚えている、なんてなことがよく言われますが、まあそうであるなら当然に「何が欲しいか」とか「何が好きか」とか

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廻り道をして

この哲学全体はそのすべての廻り道を通ってどこへ行こうとするのか? 曙光 553 序 哲学をやりだすと、徹底的に廻り道をしてしまうことになりますが、もしかしたらある程度は必要なプロセスなのかもしれません。 誰にでも分かるようなもので、完全な哲学があれば、それ以外のものは残っていないはずですが、ルートとして幾多の可能性があるため、それぞれがそれぞれの表現で、それぞれの思考ルートをたどって行くことになるのでしょう。 ただ、最終的には小学一年生

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理想的な利己心

妊娠の状態よりも荘重な状態があるだろうか?われわれのするすべてのことは、われわれの内部で成長しつつある者に何らかの意味で役立つに違いない、という密かな信念のもとになされる! 曙光 552 序 利己的ということを考えた時に、「それは利己的であり、受け入れられない」と言っている人も、「常識」や「全体を優先する」という観念のもとなんだかんだで利己的であり、「利己的」という言葉は、あまり意味をなさない言葉でもあります。 社会的な合議の場なんかで

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将来の徳について

世界が理解しうるものになればなるだけ、それだけ一層あらゆる種類の荘厳が減少したというのはどうしてであろうか?あらゆる未知のもの、神秘的なものに面したときわれわれを襲い、理解できないものの前に崩折れて恩寵を願えとわれわれに教えた、あの畏敬のいたく根本的な要素は恐怖であったからか?そしてわれわれが恐怖感をもたなくなったことによって、世界はわれわれに対する魅力をも失ったのではないであろうか? 曙光 551 前半 何となくイメージとしてですが、

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罰する正義

「あなたの為を思って言っている」 という場面がよくありますが、99%くらいは嘘で、発言側の見栄や「恥をかきたくない」という恐怖心が発端で、そういう言葉を発しています。 そんなことは中学生にでもなれば分かることのはずですが、その発言者の人は自分も中学生を経験しているはずなのに、よほど鈍感な中学生時代を過ごしたのか、どうもそういう嘘をつきます。 もちろん嘘と言っても、本心も数%も入っているとは思います。 ただ、純度100%で相手を思い、説教

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よりよい人間たち!

社会をより良くしていこうとするのはいいのですが、たいていの場合弱者にばかり合わせる形で玄人を制限し、あげく「選べない」という形で辟易させ、結果社会の加速を制限していることにそろそろ気付きましょう。 すごくわかりやすいのはガスコンロでしょうか。 「天ぷらを揚げている途中に電話がかかってきて長電話になり、天ぷら油から火災が発生」 という事が多すぎて、強火のままでいきたいのに「カチッ」と勝手に弱火になり、調理の流れが制限されるということが起こ

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「自己逃避。」

バイロンあるいはアルフレッド・ドゥ・ミュッセのように、自分自身に対して短気であり、陰鬱であり彼らの行なうすべての店で逸走する馬に似ていて、そればかりでなく、自分自身の創作から、短い血管をほとんど破裂させそうな喜びと情熱だけを獲得し、その後でそれだけ一層冬のような寂莫と悲観とを獲得するような、あの知的な痙攣の人間たち、― 彼らはどのようにして自己の内面で我慢できようか!彼らは「自分の外」のものに同化することを渇望する。 曙光 549 前半

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ヨーロッパ的でなく、高尚でない

キリスト教には、何か東洋的なものと何か女性的なものがある。これは「神はその愛する者を懲らしめる」という思想の中にあらわれている。なぜなら東洋の女性たちは、懲らしめと世間からその身を厳しく隔離することとを夫の愛のしるしと見なし、このしるしが中絶すると不平を訴えるからである。 曙光 75 「誘惑者」で触れていますが、同級生のお母さんたちはみんなお母さんという感じですが、最近では「お母さんではなく一人の女性として」というような風潮になってきて

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キリスト教徒の底意

次のことが第一世紀のキリスト教徒のごく普通の底意ではなかったろうか。「罪がないと思いこむよりも、罪があると思いこむ方がよい。というのは、はなはだ強力な裁判官がどんな気持ちでいるのか、よく分からないから。― しかし裁判官は罪を意識している者ばかり見つけたいと思っているのではないかと気がかりでならない!彼は大きな力をもっているので、自分の面前の人間が正しいということを認めるよりも、罪人を赦す方がたやすいであろう。」 曙光 74 前半 キリス

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かつてのドイツ人的な教養

あのドイツ人的な教養はヨーロッパ人を馬鹿にしたということ、またそれはそうした関心に、それどころかそのように模倣したり張り合って自分のものにしたりすることに値しなかったということは、否定することができない。まあ今日、シラーや、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、シュライエルマッハー、ヘーゲル、シェリングなどを捜すがよい。 曙光 190 中腹 「シラーや、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、シュライエルマッハー、ヘーゲル、シェリングなどを捜すが

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「死後。」

死後を経験したことがないからこそ、「夢の中では死なない」なんてなことが言われることがあります。 「死んだ後、『私』はどうなるのだろう?」 「死後の世界はあるのだろうか?」 そんなことを思ってみたところで経験したこともないこと、経験し得ないことはいくら考えても想像の域を出ません。 誰がどう死後について語ろうと、その人は死んだことがないので死後のことについては推測の域を出ることがありません。 「死んで生き返った」ということを語ったとしても、

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現今の人々の哲学研究法

現今哲学的に考えるわれわれの青年たちや、女性たちや、芸術家たちは、ギリシア人が哲学から受け取ったのと正反対のものを要求するということに、私は十分気がついている。 曙光 544 序 現今(げんこん)の人々の哲学研究法ということで、活字中毒期の個人的な哲学的思索、哲学研究について触れていきましょう。 普通、哲学研究というと過去の哲学者が提唱した概念を学び、知り、それを踏まえて展開していくという風に想像されるところかもしれませんが、哲学の研究

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情熱を真理の論拠にするな!

この場合は、情熱=パッション(passion)ということで、殉教としての情熱という感じでしょうか。 世の中には「押しが強い人」がいます。その内容が理不尽であっても押しの強さでやってきたというタイプの人です。 たまに政治家でもそのタイプの人がいますね。というより、そういう人たちはそうした気質を利用されつつ、ほとんど傀儡ですから、それはさておきましょう。 新興宗教にハマった人というのは概して押しが強いものです。 「迷っている人々を救うことで

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最初のキリスト教徒

聖書の中には、最も野心的で最も厚顔な魂が備わり、また、抜け目がないと同様に迷信的でもある頭の持主である人の歴史、使徒パウロの歴史もやはり書かれているということ、― 若干の学者は別としても、誰がこれを知っているだろうか? ― パウロの書面を「精霊」の啓示として読むのでなく、われわれのあらゆる個人的な危機を考えないで、誠実な、そして自由な自分の精神で読んでいたなら、真に読んでいたなら、― 千五百年の間そのような読者は誰ひとりいなかった―、キ

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老練

実行に当って、摑み損ねもなく、躊躇もなくなるときが老練に達するときである。 曙光 537 老練ということで、何事もプロの領域に達すると、迷いもなくものすごい判断の速さと実行をもって素早くこなしてしまうようになります。 以前何処かで書いたと思いますが、仕事をしているようでも結構な空回り時間があり、あれこれ判断を決め兼ねているとドンドン進みは遅くなっていきます。 ⇒(仕事を倍速でしてみよう「われわれのどこが最も精巧であるか」、「粗雑な知性は

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短気な人間はどこでわかるか

戦い合い、あるいは愛し合い、あるいは敬慕し合う二人の人間のうち、短気な方の人間はいつもわずらわしい方の役割を引き受ける。同じことが二つの民族にもあてはまる。 曙光 398 短気というものは非難されがちです。しかし引用は、まあ「気が短い」というだけでそれが良いとも悪いとも言っていないところが面白いですね。 いつでも心地よい、快い状態でいたりとか、アイツによる騒ぎ、執着をやめるということは確かにそうあるのが良いのですが、アイツの性質上、快い

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真理は力を必要とする

たとえ口の上手な啓蒙主義者がいかにその反対を言うことに慣れていようとも、― 真理はそれ自体では断じて力ではない!― 真理はむしろ力を自分の味方に引き付けるか、あるいは力の味方になるか、でなければならない。 曙光 535 前半 社会を見渡してみると「力を手に入れなければならない」というような印象が多いですが、力は手に入れるものではありません。 同時に力だけでなく一切の現象は「手に入れる」という属性のものではないのです。 体育会系や義務教育

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宗教の起源について

事物について自分自身の意見をどうして啓示として感じることができるのか?これは宗教の発生の問題である。 曙光 62 序 宗教の起源は、埋葬やシンボルの登場、自然信仰、岩石信仰(巨岩信仰)などなどといったところですが、そうした原始的なものから、文化社会的な都合で妄想されてきたものがほとんどです。 理性では理解できないモノへの畏怖や未知のものへの恐怖を筆頭に、何かしらの感情、元を辿れば生存本能的な恐怖心が発端となり、妄想でそれを埋めるという事

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われわれ初心者!

俳優が他の俳優の演技を見るとき、彼は何と一切のものを推測したり見て取ったりしていることだろう! 中略 他方画家が、彼の前で動いている人間をどんなに別様に見ることであろう! 曙光 533 抜粋 合気道の袴は、相手に膝の動きをさとられないためにブカブカであると聞いたことがあります。 一方、画家はピカソ等々平面空間を抽象的に統合して捉えたりしています。 さて、「われわれ初心者!」です。初心者ということで「初心者と学力」あたりから進めていきまし

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「愛は平等にする。」

愛は、それが一身を捧げる相手から、よそよそしさの感情をすべてなくそうとする。したがって愛は偽装と擬態とで満ち満ちている。愛は絶えず欺き、実際には存在しない平等のお芝居をする。 曙光 532 前半 平等ということなので、絶対的なモノの見方と相対的なモノの見方についてでも書いていきます。 平等が語られる時は、だいたい社会目線です。経済学の永遠のテーマとされる、ピザを均等割りするのか、体格に合わせて分けるのかといった分配なんかも社会的です。

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思索家の廻り道

多くの思索家にあっては、その思索全体の歩みは、厳しく、仮借(かしゃく)なく、大胆であり、それどころか、時々自分に対して残酷である。しかし細部にわたると、彼らは穏やかでありしなやかである。 曙光 530 アイツこと自我は、危険回避を中心に汎用性の高い法則を好みます。 そういうわけで、若いときから様々な物事に対して「どうやったらいいんだろう?」という疑問がわくたび、「バッチリな答えはないかなぁ」なんてなことを思い、思索を繰り返してきたのでは

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どの程度まで同情を警戒しなければならないか

同情は、それが実際に苦しみを作り出すかぎり― そしてこれがここでわれわれのただひとつの視点であるが―、およそ無害な感動に迷いこむことと同じように、ひとつの弱さである。同情はこの世の苦しみを増大させる。 曙光 134 序 人に影響を受けてしまうということは、この心の状態に関して他人が条件となっており、また「人に影響を受けたくない」という抵抗感も、人からの影響を示していることになります。 そして人を励ますという場面においても、根底に同情があ

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