タグ別アーカイブ: 言語

言語・言葉に関することについて

「汝自身を知れ」は学問の全体である

あらゆる物の認識の終わりになってはじめて、人間は自己自身を認識したことになるであろう。なぜなら、物は人間の限界であるにすぎないからである。 曙光 48 「汝自身を知れ」とぱっと見ると、「まずは自分を知ろう」というよく就職カウンセリングでありがちな自己分析のようなことをしか思い浮かばないと思いますが、一応これは古代ギリシャの神殿に掲げられたものです。 格言は短文であれば短文であるほど、たくさんの解釈ができます。理屈上は、文は長いほどひとつずつの単語の定義を解釈していけるので、長文のほうが解釈の幅は広がりそうですが、簡

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言葉がわれわれの妨害になる

言葉に力を与えた時、というよりも意識的無意識的問わず「力があると認めている」時、言葉は力のようなものをもちます。 それが「アイツ騙し」であり、宣言効果であり、アファメーションと言われるものです。言葉を繰り返すことによって、その言葉の影響を利用しようというものです。それは実際の力というよりも、擬似的な力です。 特に「ポジティブな言葉を使おう」という場合、目の前の現象の属性をポジティブなものに解釈するようにフィルターを少し変更するような力です。 言葉によってフィルター変更する 本来無属性の現象を、経験の記憶と恐怖心のフ

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現代人の皮肉

日下一切の大きな関心事を皮肉に取り扱うのが、ヨーロッパ人たちの流儀である。彼らはそれらの仕事に忙しいため、それらを真面目に考える暇がないからである。 曙光 162 現代人の皮肉ということで、京都人の皮肉やそうした京都における皮肉の本意などについて触れていきます。 先日、パスカルの「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである」という格言について触れましたが、ただ単に皮肉に取り扱う場合と、真に「ばかにする」ということは似て非なるものです。 これは宗教を無条件に批判することと、思考の結果、排斥する場合との違いに似て

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見え坊で、けちで、賢くない

諸君の欲望は知性よりも大きく、諸君の虚栄心は欲望よりもさらに大きい。― そうした諸君のような人間には、かなり多くのキリスト教的な実践と、それに加えてわずかばかりのショーペンハウアー的な理論が徹頭徹尾おすすめできる! 曙光 160 見え坊は見栄っ張りを指し、外面・外見をよく飾ることで人からよく思われようとすることであるため、人の虚栄心についてでも書いていきましょう。 見栄を張り方としてはいろいろな張り方がありますが、見え坊とは、見栄っ張りの中でも 特に所有物や外見の装いなんかで見えを張ろうというタイプを指します。 何

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思想家の盲目

思想家とは、思想を持ち、時に思想を説く人ですが、あくまで思想はただの思想で、それ以上ではありません。人を狂気に導く性質を持ちながら、問題は何も解決してくれないという性質を持っています。 思想家が思想を説いたりする奥には、たいていその思想が社会にインパクトを与え、その結果自分の都合が良くなるか、自分の中の何かが満たされるかといったものが潜んでいます。 つまり思想を介して、自らを高めよう、自らを幸せにしようというような試みが垣間見れます。 以前に少し触れましたが、思想を持って、何かの活動をして、その結果社会が動いたとし

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宣誓のひな型

「今私が嘘を言うなら、もはや私は決して真面目な人間ではない。誰でも私に面と向かってそういってよろしい。」―私はこのひな型を、法廷の宣誓とその際しきたりである神への呼びかけとの代わりにおすすめする。この方が強い。信心深い人でも、これに反する理由は持たない。 曙光 152 前半抜粋 宣誓とは、もちろん誓いの言葉を述べることであり、主に「誠意を見せるため」という目的のために述べる誓いの言葉のことを意味します。 宣誓というものがなぜ必要なのか、それは異なった考えを持つ人同士の中での一種の取り決めのような性質があるからではな

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最も厳密な理論の効用

人々は、ある人間の多くの道徳的な弱点を大目に見、その上粗い篩(ふるい)にかける。彼が最も厳密な道徳理論を信奉するといつも公言しているとしてのことだが!これに反して人々は、自由精神の道徳学者の生活を、いつも顕微鏡で調べてきた。その生活に過失があれば、ありがたくない認識の最も確実な反証になる、という底意を抱きながら。 曙光 209 「その生活に過失があれば、ありがたくない認識の最も確実な反証となる」 これは日常でよく行われていることです。自分に都合が悪くなれば、相手方の過失を見つけ、関連させて、本題とは全く違った性質な

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大きな沈黙の中で

「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」と言ったのはウィトゲンシュタインです。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」で終わることで有名です。 論じえぬことに対してあれこれ論じて盛り上がるのは雑談程度で十分のはずなのですが、世の中では論じ得ないこと、論じても仕方ないことがたくさん論じられています。それに必要以上に価値を付けるのでより一層おかしくなっていきます。 どうコメントしていいのかわからない局面 生きていれば、どうコメントしていいのかわからない局

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良心問題

「では要するに、諸君は一体どんな新しいことを望むのか?」―われわれはもはや原因を罪人に、結果を絞首刑吏にしようとは思わない 曙光 208 原因を潰そうとして頑張ってみるものの、原因を潰しても結果が変わらないことがあります。 原因を潰そうとしたら、他の面まで潰れてしまうという場合もありますが、他の面も変わらなくて結果も変わらなかったというケースです。 原因だと思っているポイントが間違っている場合、というのもありますが、原因はそんなに単純ではありません。本当は単純なのですが、詳しいことを分析して解明してしていこうとする

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習慣の穿鑿

穿鑿は「せんさく」と読むそうです。穿(うが)ち、穴を掘ること、から根掘り葉掘りというような意味合いで使われるようですが、「刷新」という言葉を使って普通に生きていてはあまり使わない単語を見せて「なんだかすごい」というような関心を引き寄せようとするようなことで、「読めへんよ」と一瞬感情を沸き起こさせることが目的ですから、あまり気にしてはいけません。 字は違いますが、「詮索する」も「根掘り葉掘り詮索する」という風に使われるように、穿鑿も「根掘り葉掘り穿鑿する」という感じになるのでしょう。 詮索と穿鑿 ただ、印象として詮索

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精神に対する誇り

「誇り」というものは、勝手に内側にとどめておくか、第三者への賞賛の場合に使うようなものです。この言葉の使い方を間違えれば、誇りはただの優越感であり、高慢であり、後ろめたさへの自己説得になってしまいます。 本来自分自身が持つ誇りは、自分自身で納得しておくようなものです。また、誰かを勇気づける時に用いたりするという場合もあるでしょう。しかし「これが私の誇りである」と言い放ちつつ、誇りを卑怯な手段として利用する人たちもいます。 ということで「誇り」と称する傲り、強がりのような、優越感、高慢、後ろめたさへの自己説得について

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自由行為家と自由思想家

自由行為家と自由思想家という感じで、「自由」が強調されていますが、肩書きに「自由人」というふうに書く人は、あまり好感が持てません。そんなことは他人に主張するようなことではないからです。 自由行為家や自由思想家は、いわゆるそのエリアの宗教前提の発想や風土・文化に縛られずに自由に行為する、自由に思想を展開していくというような感じです。 その言葉の裏には、西洋であれば聖書の記述は絶対だという前提から考える人達がいて、「自分はそういうところから考えを始めたりはしないぞ、もっと自由に考えるぞ」というような感じが潜んでいます。

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人類の新しい教育のために

たまに掲示板みたいなところに標語が貼ってあったりします。 標語を集めて意識を高めようというのは義務教育と公務員の発想ですが、実際に選考に関わる審査員はやっぱりギムキョなので、何が問題かということに気づいていないことがよくあります。 たとえばこのような標語ですが、まず「君なんだ」ということで、どうして他力本願なのか、という疑問が残ります。 つまり、「あなたはしないんですね」というようなツッコミが入ることを想定していません。 逆に「僕なんだ」とか「私なんだ」、とか言うのも、他力本願ではないものの、少し傲慢なような気がし

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空間感情の学び直し

たしかなことは、最高の幸福と最低の不幸の間の空間の広さは、想像された物の助けを借りてはじめて作り出されたということである。 曙光 7 一部抜粋 最高の幸福を自己啓発ウェーイは「最幸」と書きます。それだけで新興宗教のような胡散臭さが拭えません。たしかなことは、最高の幸福は、群れてウェーイすることではありません。 幸福と不幸の間に空間があって、その間には多様な感情があるというように定義されそうですが、不幸な状態というのは、引用のとおり「想像された物の助け」によって生み出されています。 教養 「教養」という言葉があります

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学者の偏見

ある研究が始まり、そのことは研究し尽くされている、ということは正しい意見ではありますが、昔より今の方がその分野への理解は進んでいるというのは全く誤謬で、さまざまな方法論的なジャンルやデータはたくさん膨らんでいったとしても、それは表現が変わっていっただけで一切進歩していない場合もあります。 さらにはそれどころか、元々は純度が高かったものが、「あるランクまでは学ぶ」ということをしていった結果、余計な不純物が混じって、結果の表現がおかしなものへと変化していくのが普通でしょう。 名言、格言の解釈 これは、よくある「名言集」

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岸和田少年愚連隊

先日、中学生の時にテープが擦り切れるほど観た「岸和田少年愚連隊 BOYS BE AMBITIOUS」(1996)を改めて観てみました。ナインティナイン主演のやつですね。 観てみました、というような流れは苦手です。なぜならブログなどのタイトルが「○○に行ってきました」「○○観てきました」というのはおもんないグループのような気がするからです。俗に言う「踊ってみた、歌ってみた」の類の親類ですね。 結局、消費者の域を一切出ない感じが寒いのでしょう。 特に面白く書いてくれるわけでもなし、ただ「○○しました」という「報告」に近

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サブウェイ カラスマライン

京都の地下鉄に乗ると「サブウェイ カラスマライン」という言葉が聞こえてきたりします。外国人にも聞き取りやすいようにということなのか、固有名詞である「烏丸」まで外国人風に発音したりしています。 そんなことだからいつまで経っても外国人がきれいな日本語を覚えることができないのです。サブウェイやラインについては外国人に合わせてもらっていいですが「固有名詞まで発音を変形させるなよ」ということを思ったりします。 それについては後述するとして、ひとまずは、言葉の変な省略、略語についてから進めていきましょう。 ― ファイナルファン

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文化的

文化、文化的というと、様々な定義がありそうです。 ウィキに載っていたモノで言えば ハイカルチャーのように洗練されたもの 象徴的な思考や学習による信念やふるまいのパターン ある社会組織に共有されている価値観 上記のものは一切本質的ではないと思っています。説明になっているようないないような定義もあれば、半分くらいしかかすっていないような定義ですね。 「ハイカルチャーのように洗練されたもの」というのは、「高次の文化のように洗練されたもの」ということで、定義の中に単語が入っているため、説明になっていません。 エドワード・タ

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生きるって悲しい 改

人は焦ります。焦ったときは当然にそわそわしているので、それを苦しいことだと感じますが、ゲーム中に焦っているときは、「エキサイティング」を楽しんでいるだけで、特に苦しんでいるというよりは純粋に楽しんでいるはずです。苦しいのならすぐにやめられるのですから当然です。 想像力というものは強力なので、「なにか大変なことになるかもしれない」というイメージは相当自分を焦らせてきます。ところが、実際になにかが起こってもそれは大変なことではありません。腹痛のような激痛がくるのならまだしも、たいして自分には何のダメージもありません。ほ

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だまされるのはいつも言葉 改

日々暮らしていれば、ふとしたことから「言葉」にだまされてしまいます。 言葉の力については、過去記事で少し触れましたが、言葉よりも強力なのは関連思考と想像力です。 意志の力よりも 何度か触れましたが、意志の力は大したことはありません。 くり返し唱えられる「言葉」や、サブリミナルの前では、半紙で機関銃を防ごうとしているようなものです。 体育会系は意志の力を「根性」と置き換えて、それを凄いものかのように説きますが、あれは激しい運動で思考が弱っている時に「声援」や「喝」を入れるから効果があるだけで、実際はあまり意志の力は働

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呪文・そもそもはない 改

この呪文は一見、人の幸せを打ち消しているように思えますが、「ない」とは否定の意味ではありません。 否定とて、あることを前提にしているからです。 「そもそもはない」 存在する/しないの二元論の域をいっそ出てみましょう。 言葉というものは何かを限定する性質があります。 ある特定の概念を指して、それ以外を排除するという性質です。 そこでばっちり定義ができればいいのですが、それもなかなか難しいという感じになっています。 定義の問題 「りんご」といってもたくさんの種類があります。 品種に始まり、形や大きさにもバラバラなのにそ

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だまされるのはいつも言葉

外国人が来て、怒った顔で自分に罵声を浴びせるとき、大抵は「何か悪いことをしたかな」と思うものです。 でも本当は「うちのオカンのカレーは格別にうまい!今度食いに来い!」と叫んでいたらどうでしょう。 言葉がわからない故に勘違いしてしまいます。 言葉には力がありますが、それは言葉に力という属性を与えているからです。 言葉に意味というラベルを貼り付けているからです。 一方で意思の伝達にはかなり役立ちますが、苦悩の元凶にもなりえます。 言語による説得は感情には勝てない 漠然とした言葉の意味にとらわれて、いつも感情が振り回され

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バル

時代時代で流行りがあります。無刺激に耐えられない人が、刺激を求めて流行りを探します。その事実だけは時代によって流行ったり廃ったりはしません。 最近では「バル」という看板をよく見かけます。 スペイン系の店ではかなり前から使われていたようですが、端的に最近のそれはただの流行りというだけではないでしょうか。 関係のない店でも、そんな名前を店舗名に入れています。 後々寒く感じてしまう言葉 この世には後々寒く感じてしまう言葉というものがあります。主に流行りものとなりますが、その時は良いものの後々自分でも寒気を感じてしまうよう

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辞書

普段辞書というものをそれほど利用するというわけではありませんが、たまに読み物として広辞苑等々の辞書を読むことがあります。 辞書を読んでいると、様々な単語についての微妙な勘違いに気づいたり、より的確な表現を見つけられたりするので面白かったりします。そして語の印象が明確になっていくことや表現の幅の広がりが起こるに従い、感情表現もうまくなりストレスが減っていきます。 しかし、逆に言葉に関する「違和感」を察知してイラッとしたりすることもあります。 ただ総合的に考えると辞書を読むということはプラスになると思います。 歩こう会

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シャンプーの営業

もう何年も髪を切りに行っていません。 いつも自らバリカンで切ることにしています。 最近でこそ坊主頭ばっかりしていますが、髪が長い頃もありました。 一番長い時で肩くらいまでありました。 中途半端な髪色が嫌だったので、染めるときはそれなりの激しい色にしていました。 たまにパーマもあてていました。 どうして、坊主にしたか。 それは、年々薄毛になってきていることも理由ですが、どちらかというと髪を切りに行きたくないというのがあります。 当時も自分でやるか、友達にやってもらうか、友達のお母さんにやってもらっていました。 あとは

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