表と裏と社会性と匿名性
一時期やたらにインターネット上で著者を示そうとか実名で公開させようとするような流れがありました。しかしそれは、インターネットの役割として相性が悪く、頓挫する形になりました。 まあインターネットの匿名性は、時に社会の中で問題となることがありますが、そうした場合被害者側の思いばかりが語られ、匿名性がもたらした害悪だということが語られたりしています。 そうした問題自体は、インターネットにまつわる一つの問題としての側面として、事実として検討してくべきポイントとなります。しかしながら、いわゆる加害者側にも動機の発生から実際の
趣味や職業と生き物の命と不殺生
「趣味や職業と生き物の命と不殺生」ということで、生き物の命と人が生きていく上での殺生について触れていきます。 たくさんの数のご連絡の中から「趣味の釣り」や職業として殺生を避けられない職業についてのご質問を受けました。 趣味としての釣りにおいては、海の生き物に対する殺生が関連し、ガーデニングにおいてもいわゆる雑草取りや害虫駆除という殺生が関連してきます。 職業としては、畜産や漁業・狩猟をはじめ、農業や造園であっても先のガーデニングと同様の殺生が関連してきますし、清掃や建築関連であっても多少は関連してきます。 究極的に
内発性と自発性
一見同じように見えてしまう「内発性」と「自発性」は、似て非なるものであり、「内発的」と「自発的」というものも異なる概念です。 まあ言葉の定義というものは、各々の方々によって違ったりしますが、ここでは、アリストテレス的に内発性と自発性について少し触れていきます。先程、類語について触れていたのでそのついでです。 世の中では内発的動機づけと称しながら、人をマインドコントロールしようとする人たちがいます。新入社員研修などでもありがちです。 その内発的動機づけという言葉における内発的という言葉は、おそらくアリストテレスが言っ
その時間を無かったものとして扱う人たち
世の中には平気で遅刻したり、残業代や取引代金を支払わなかったりする人がたまにいます。僕としては信じられませんが、いくら世の中が変化していこうが、未だにそうした人たちがいるようで、その様子が耳に入ってきます。 それら人たちのその行為は、要約して言うならば「その時間を無かったものとして扱う」ということです。 約束の時間にこないということは、その時間に来ていた人たちの待ち時間というものをまるで無かったかのように扱っているということになりますし、残業代を支払わないということは、働いた人の時間、働いていた時間を無かったものと
パワハラの境界線
世の中では、パワハラが問題になることも多いですし、僕もたまにパワハラ野郎という概念を使うことがありますが、そうしたパワハラの境界線を捉える上で、面白い人がいたことを思い出しました。 定義上パワハラは、パワーハラスメントなので、嫌がらせ要素が必要になり、職場への悪影響が発生していることが定義上の要件となります。 そういうわけでただ単に客観的に暴力的な指導であるからと言ってパワハラと判定することはできません。 それをパワハラとするには、やはりその奥に「自尊心の補償」という概念や八つ当たり的な要素が必要になりますし、「職
お通しやサービス料、保証金といったよくわからない商慣習
以前にも少し触れていましたが、20歳前後の頃よくわからない商慣習のおかげで外出するのが嫌になったことがあります。 いまでこそかなりマシになりましたが、当時、居酒屋のお通しと呼ばれるようなものを筆頭に、飲食店などにおいて謎のサービス料のようなものが何の説明もなしに料金に付加されたりして困惑しました。 最近ではメニュー表に記載されるような時代になったので若干は気楽になりましたが、このとき感じた違和感によって未だに飲食店に行くことがあまり好きではありません。 何故そのようなことが通用していたのかが謎でしたが、やはり納得が
「キャー!」「きゃあん!」と叫ぶ子供の奇声への対処
「キャー!」「きゃあん!」といった超高周波の奇声を絶叫する子供が激増してきました。 家の前、飲食店、スーパーなどの小売店、そして温泉ですら、「無線のチューニング」並みの「キャー!」「きゃあん!」という子供の奇声が聞こえてきます。これは完全に公害です。 最初に言っておきますが、「うえーん」や「えーん」「ぎゃあああ」といったように、怪我をして泣いているとか、赤ん坊が泣いているという場合の声ではありません。 だいたい女の子の方に多いですが、幼稚園児、保育園児といった小学校就学前の子から小学校中学年くらいまでの間の子供が叫
ネット広告の品質と品性
詐欺的な商法を叩く割に、その脇でちゃっかりとそうした広告を表示することで収益を上げているという落語的な感じに爆笑したので、記念に書き記しておこうと思います。 最近また「ネット広告から集客して情報弱者からお金をむしり取る系」の人たちが問題になったりしていたようです。胡散臭いネット広告で釣りのようなことをして、あまりインターネットに慣れていない人を騙すような形でお金を荒稼ぎする方法です。 昔からこの手の情報商材詐欺のようなものは常に一定のマーケットを持っていて、なぜかそれにハマってしまう人たちも一定数いるという感じにな
君主論から考えるいじめへの対応と対策
生きる苦しみについて書いたりしたので、わかりやすい苦しみとしての「いじめられること」について考えてみましょう。 以前「なぜ、人をいじめてはいけないのか」で、善悪基準からいじめがいけない理由などについて考えてみてもほとんど無駄ですよというようなことを書いてみましたが、いじめが良いとか悪いとかそうした絶対的な善悪基準や倫理道徳云々はさておいて、自分が不当ないじめにでも遭ったら、それはもう苦しくて嫌であることは明白であり、その状態から脱することは本能的な恒常性として議論の余地無く対応していかねばなりません。 社会全体的な
倫理と道徳が陥る罠
倫理と道徳が陥る罠ということで、倫理と道徳について触れていきます。徹底的に書いてもいいのですが、深く触れていったところであまり意味を成さないためふんわり書いていきます。 倫理とは、人が生きる上で、理と関係性の中での基準となる行動基準、いわば秩序としての行為の基準という感じです。単純には「人はどうあるべきか」というようなものということになるでしょう。また、道徳とは、結局ある「道」に関して、つまりある基準の上で「それがよし」とされているような指針という感じで、もう少しふわっとした概念です。倫理と道徳の違いとして、倫理は
八百長の胸算用
世の中のいたるところで出来レースが展開されています。いかに作品に作者が記載されていても、ゴーストライターが書いたものかもしれないという点は、どこまでも疑問として残ってしまいます。 作詞が歌い手名義になっていても、トークの機会を観察する限り、ご本人の気質や語彙力から「本当のところはわからない」と感じるときもあります。 「まあわざわざそんなことはしないだろう」という感じなら特に疑いも生まれませんが、「売り出すために凄腕の才能だと演出する」という演出の意図があったりもしますのでなんとも言えません。アイドルではなくアーティ
日和見な昼行灯
確固とした意志を持つことがなく、その時の状況に合わせて多数の勝ち馬に同調するという層がだいたい7割、それは腸内細菌の世界ですら起こっていることなので、変わることのない自然のバランスなのかもしれません。 ただ腸内細菌においてもそれは細菌類たちの社会の中でのバランスであり、一つずつの細菌自体は一応独立した存在でもあります。 これを人間社会に置き換えてみて考えた場合、社会の構造がどうあれ結局は自分個人がどうあるかというところだけが問題となります。 ドラマの影響で人生が変わる危険 「洗脳の結果としての消費行動」などで、以前
根無草の二枚舌
最初から計画して嘘をつくということは詐欺師並の輩にしかできない芸当ですが、時に人は嘘をつきます。お金が絡んできたり異性絡みだったり、はたまた地位や名誉などに関する事柄となると、人を心底信用することはできません。 嘘と言ってもその種類は様々で、ただ自分を守りたいだけなのか、私利私欲のために相手を陥れるためのものなのか、相手を傷つけないためのものなのか、それとも相手の状態を見越してひとまず仮止めとして方便を説くかといったような感じでたくさんのパターンがあります。 夏目漱石氏の「こころ」を再読 諸法無我で少し触れたりして
鉄面皮との天王山
世の中には考えられないほど厚かましい人もいますが、そうした図々しい人の意見を受け入れるべきか否か、というところは少しばかり俯瞰しながら対処する必要があります。 ひとまず騒がれるのも面倒なので、特殊事案として適当に対処するというのもひとつですが、下手にそうした図々しさを受け入れるとそれが基準となり、今後その基準の上で対処していかねばならなくなるということも起こりうるので、徹底的に拒絶するというのもひとつです。 すなわち、厚かましい人に対する対応として、面倒な場合ひとまず特別に相手の要求を受け入れるという選択肢もあるも
断末魔の長広舌
もう明らかに諦めたほうがいいのにまだしつこくのらりくらり感を出して意味不明な弁明をしているような会見なども多々あります。 ただやはりそれは客観的に見ているからこそ相手が変に見えるだけで、実際の当事者ともなるパニックでまともな思考力を保てなくなるということになるのでしょう。 当の本人も冷静なときであれば自分を客観視して、もっと良い弁明をしたり、もっと良い解決策を考えたりできるものの、冷静さを欠いているからこそ「何を言ってるんですか?」と言われてしまうような意味不明の言い訳をしてしまったりする、というような感じです。
走馬灯の如く思い返す太公望
「能ある鷹は爪を隠す」のおじさんは釣り好きであり、また勤め人時代には結構釣り好きの人がいました。すべての人ではないと思いますが、そうしたタイプの人から受ける印象はどうしても「趣味に生きている人」といったような感じがします。 生活を趣味に合わせて生きているという感じがして、有給などを念入りに消化していく感じの人が多いという印象です。 「能ある鷹は爪を隠す」のおじさんの車には「〇〇名人」というようなステッカーが貼ってあったりしました。それほど釣りが好きなのでしょう。その一方で、成績は寥々、仕事はいまいちという感じだった
数寄屋で赤裸々に
数年前のことになりますが、すき家の前を通ると一人のおばさんが店内に入っていきました。 信号待ちをしている間、その様子を「道を挟んだ向こう側」から観察していました。 特に座る様子もなかったので、「持ち帰りだろう」と思っていたのですが、注文することもなく、忙しそうな店員さんを尻目に「紅生姜」と「割り箸」と「七味」を勝手にごっそり持って帰りだしました。 「泥棒じゃないか」 そうは思いましたが、もしかすると持ち帰りを車などの中に入れつつ割り箸などを忘れたということで取りに来たという可能性もあったので、特に指摘することもなく
金輪際なしに…の後日談
「二度あることは三度ある」というようなやつでしょうか、なぜかアクシデントというものは連続することが多く、そうした時は集中力が格段に落ちていたりします。 集中力が落ちている時、物をよく落としたり無くしたりすることがあります。おそらく、ちょっとした注意力が保てなくなっているのでしょう。そして少しずつの「注意不足」が積み重なり、大きなアクシデントとなってしまう場合があります。そして、それはそれだけで終わってくれず、何度が連続して続いてしまうということがあります。 かなり昔になりますが、ものの一ヶ月位で2回バイクに絡んだア
首実検、のち、下剋上
そう言えば少し前悪徳体育会系が世間から袋叩きにあった事がありました。メディアに触れない僕の耳にすら届くほどの大盛り上がりを見せていましたが、世間では大なり小なり同じような構造が蔓延しているはずであり、だからこそあれ程の盛り上がりを見せたのでしょう。 意志決定の簡素さやそれに伴う素早さ、そして統制の合理性から考えれば体育会系の構造は「楽」ですが、一方その裏でアイヒマン実験さながらの人格変容の構造を持っています。 ゲッベルスさながらの洗脳企業の意見 そんな中、ゲッベルスさながらの洗脳企業がネット上で意見を申し述べていま
口八丁の金字塔
口の上手さだけでなく、人は自信にも感化されてうまく転がされてしまいます。妥当性ばかり追求している人より、ホラ吹きの方が大物のような人になっているというケースを実感している人も多いのではないでしょうか。 単に口が上手いということなら「それはスキルだからなぁ」と納得できそうなものですが、それが嘘であっても、大見得であっても、結局周りが感化されて嘘のように実現しているという場合があります。 ある種不公平に感じますが、それくらいに口の上手さの裏にあるような自信のようなものは強力なのです。そして相手を錯乱させるために権威性を
風見鶏の表看板
世の中では「いかに人の注目を集めるか?」ということ競い、その結果を渇望して「広告合戦」のようなことが繰り広げられています。 人々の日常の意識の向き先がマスメディア一極集中から、ウェブそしてアプリケーションへとどんどんと分散していきましたが、大体は人の注目を集めようとしすぎた故に疎がられ、その場所は過疎化し、また新たな場所に人々の意識は移るという流れが続いています。 古くはメルマガ登録、その後はSNSと矛先は異なりますが、結局「広告がしつこく、鬱陶しい」ということになって、人の意識を長期的に釘付けにすることはできなく
嘘八百の内弁慶
唯物論的には、また、功利主義的には正しい理屈であっても、人の「心」を考慮しなかった理論は失敗に終わっていきます。合理性や数値の上での平等を叶えたとしても、それに携わるのが機械ではなく人である限り、人の心の動きや変化を無視することはできません。 むしろそうした人の心の本質を捉えることこそ、環境によって変化してしまう思考や意志の動きを捉えることこそが最も重要なことだったりします。 コスト的な合理性、組織としての統制のとりやすさを優先し、ヒエラルキーを形成して組織を作り上げていくと、その上位の階層には強力な権限がもたらさ
韋駄天が一目散
以前どこかで触れていましたが、僕は文化系ながら太ももが異常に太く63センチほどあります。高校生の時には体育会系の人たちを差し置いて立ち幅跳びなどで学年一位でした(でも走るのは速くありません)。ということで陸上部やラグビー部などからよくスカウトを受けましたが、文化系なので全てお断りしました。 「フォームをキレイにしたらもっと速く走れるぞ」 などと体育教師に言われたりもしましたが、別にその分野に関心もありませんでした。 体育は差別の塊 それは、速く走れることにそんなに魅力を感じていないという部分もありますが、それよりも
広告による威厳の喪失
家にテレビもなければ、もちろん新聞もとっていないので、世間のニュースに関しては全く無頓着で無関心という感じで、普段あまり広告に触れることがありません。しかし、なんだかんだでネット上の様々なページに表示される広告なんかを見る機会があります。 その手の広告は、広告対象となる商品やサービスに比例するように品質が低いものも多くあり、そうした広告に顔写真などが利用されるということは、その人の威厳を喪失させてしまうのではないか、と思ったりします。 そうした広告自体が鬱陶しいですし、広告に込められているメッセージ自体が刷り込まれ
父への勝利
なぜかふと父から受けた最高の影響を思い出すので、あえてお父さんとの思い出についてお話しましょう。 僕の体育会系嫌いの原点です。 「生まれた順序で人に差をつけること」 その根拠なき差別に対する思いは、哲学的思考による論証だけに裏付けられているわけではなく、幼少期の体感が背骨となっています。 お正月の一悶着 確か小学校低学年くらいの時だったと思いますが、あるお正月に我が家で一悶着ありました。 それはおじいちゃんが僕のお年玉を1万円と設定したにも関わらず、なぜか弟は半額の5千円だったことに起因します。 お父さんがすごい剣