タグ別アーカイブ: 仏教

哲学的な仏教について
(宗教化されているものは除く)

「この印において汝は勝つであろう。」

その他の点でヨーロッパがどれほど進んでいようとも、宗教的な事物については、ヨーロッパは古代のバラモンの素朴な囚われない心にまだ到達していない。 ― さしあたりわれわれは、インドで、思索者の民族の間で、すでに数千年以上前に思索の命令として実行されたものを、ヨーロッパが取り戻すように気をつけよう! 曙光 96 一部抜粋 ニーチェによる「曙光」一書の締めくくりは、インドにおけるバラモン、そしてブッダの記述が見られ、ヨーロッパにおける心に関する考え方自体への警鈴が示されています。 さて、「この印において汝は勝つであろう。」

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不可能な階級

貧しく、楽しく、そして独立的!― これは一緒に可能である。貧しく、楽しく、そして奴隷!― これも可能である。― そして私は、工場奴隷制度の労働者たちにとってこれ以上よいことは言えない。 曙光 206 序 階級として有名なものはカーストです。そのカーストを紐解いてみれば、単にインド・ネパール地域に侵略してきたアーリア人が自分たちをバラモンとし、現地民をスードラとし、その混血をクシャトリヤやバイシャとしたのが始まりだとされています。 人とすらみなされないバリアという階級に関しては、おそらくそのエリアの国を構成する庶民と

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第1100回投稿記念

これで1100記事目になります。1100回目の投稿ということで「第1100回投稿記念」です。 ZERO STAGEで少し嵩増しされた感はありますが、前回の第1000回投稿記念は、2017年9月20日で、前回からの100記事は、その前と同じくまあまあの速度で投稿したという感じです。 そういえばもう少しするとロングラン特別企画「曙光」が終わります。どうせならということで、題目終了後も多少注釈ページや「訳者あとがき」などからエッセンスを見つけて何かを書いてみようかなぁと思っています。 さて、常連さんいつもご高覧ありがとう

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不殺生戒と人を殺してはいけない理由

不殺生戒(アヒンサー)と人を殺してはいけない理由、という感じで、生き物の命について書いていきます。 戒めとしての不殺生戒(ふせっしょうかい)をただの戒めとせず、全ての生き物に対する不殺生について、その本質と不殺生戒の本意について書いていきます。また、不殺生戒と合わせて「人を殺してはいけない理由について」も書きますが、もちろん人だけではなく、全ての生き物に対する殺生を否定することについてが主題となります。 殺生を禁ずる「生き物を殺してはいけない」という戒律、「不殺生戒(アヒンサー)」と呼ばれるものは仏教における「戒め

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共感

他人を理解するために、すなわち、彼の感情をわれわれの内面で模像するために、われわれは実際しばしば、彼のしかじかの一定の感情の起因を尋ねて、たとえば、なぜ彼は悲しんでいるのか?と問う。― そうすると同じ起因にもとづいて自分でも悲しくなる。しかしそれよりもはるかに普通であるのは、そうしないで、感情が他人において及ぼしたり示したりする結果に従って、その感情をわれわれの内に引き起こすことである。 曙光 142 「他人に共感する」ということがよく推奨されていますが、相手を理解することと同調することは別物です。 普通はある人と

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「今」に集中することと今をスタートとすること

「今」に集中することと今をスタートとすること、ということで以前にサイト内検索で大人気だった「今  集中」というようなことについて、哲学カテゴリとして少しだけ書いていこうと思います。 「今ここに集中する」みたいな感じで、欧米でも流行っているようですが、あの手のものは所詮と言っては何ですが、「フィットネス代わり」に瞑想を取り入れているという感じで、カルチャースクールのヨガ教室程度のレベルの話に終わっていると思います。 あの手の話における「今。ここに集中する」は、ストレス軽減や集中力アップ、思考の抽象度を上げる、心理的盲

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威厳と無知の同盟

そうだ、われわれの無知と、知識に対するわれわれの渇望の乏しさとは、威厳として、性格として、肩で風を切って歩くことを見事に心得ている。 曙光 565 文末 威厳を欲することはありませんが、社会の中で過ごす場合は、威厳がモノをいう時があります。それは蔓延する体育会系思想、儒教思想的なものの影響が大きいでしょう。こうした威厳のような権威性は、儒教思想下にある場所以外でもどこの地域でもあるようなことですが、 「威厳がある方が何かとやりやすい」 「威厳がないと相手に慢心が生まれ何かとやりにくい」 ということで、「オレがオレが

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最も個人的な真理問題

「私がしていることは、そもそも何であるのか?ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」― これは、われわれの現在の教養の在り方では、教えられず、したがって問われない真理問題である。 曙光 196 序 「私がしていることは、そもそも何であるのか?ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」そんなことを中学生くらいにもなればほとんどの誰しもが思うはずですが、誰もその疑問に答えてはくれず、その先自分をごまかすように大人になっていきます。 「これが答えだ」と束の間の錯覚を覚えることもありますが、寝て覚めればそれもなんだか色褪せ、また

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「うつ」を自力で克服する

「うつ」を自力で克服するということという感じで、根本的なことについて少し書いていきます。いわば「治るときはすぐに治ります」の純粋な続編ですね。 「うつ、もしくはうつ気味の方へ」というカテゴリの中の投稿数はそれほど多くありませんが、一応毎度毎度いつもよりは力を込めて書いていたりします。なぜ今まで書かなかったのは自分でも不思議ですが、どうしてこんなテーマを取り扱うことにしたのか、という点をもう少し仔細に書いておきます。 もちろんこのブログは広告なども付けていませんし、胡散臭いメールマガジン登録(笑)も一切する気はありま

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聖者の人間性

世間の聖者のイメージとしては、どこかしら厳しい戒律を守っていて、温厚で優しい人というイメージがあると思いますが、僕は昔からこの戒律というものについて首を傾げていました。 なぜなら、「戒律を守らなければならない」「律法を遵守しなければならない」という一種の制限自体が、戒律を破る動機の存在を認め、また、強制されることでそれ自体が苦しみとなるのではないか、ということを考えたからです。 「決まっているからやってはいけない」 「戒めなのだから守らなければならない」 というのは、明らかに義務教育的です。 そういうことを言い出す

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われわれの性格に反して

われわれの語らなければならない真理がわれわれの性格に反するとき― これはしばしば起こることだが―、われわれは下手な嘘をついているような振舞いをし、不信をまねく。 曙光 407 「語らなければならない真理がわれわれの性格に反するとき、下手な嘘をついているような振舞いをし、不信をまねく」 それが揺るぎない理であっても、一般的に都合が悪いこと、耳障りなことであれば、語り口調が変になり、自信がなさそうに見え、不信を招いたりすることがあります。 ― そして頭はどうしても矛盾を嫌います。 だから、完全に消化しきれるまでは、思考

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諸行無常

メインテーマとしながらも、投稿数の少ない哲学テーマですが、あえて「諸行無常」についてでも書いていこうと思います。 諸行無常について、仏教的な解説や哲学的なアプローチを行っていますが、仏教的な諸行無常の正確な説明、解説というのを期待されるよりも、この諸行無常(しょぎょうむじょう)というラベリングから何かを掴み取っていただければという趣旨で書いていきます。 日本において諸行無常という言葉は、平家物語の冒頭にある「諸行無常の響きあり」という部分のイメージが強すぎて、本来の意味での諸行無常を捉えること無く、印象的に「そうい

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最も些細なものでもすでに十分である

最も些細なものでもすでに十分強くわれわれに印づけられていて、― どっちみちわれわれはそれらを免れることはないのだ、ということが分かったら、われわれは数々の出来事から遠ざかるべきである。― 思想家は、彼らが一般になお体験しようとする事物のすべての大よその基準を、自分の中に持たなければならない。 曙光 555 経験したことは全て無意識が覚えている、なんてなことがよく言われますが、まあそうであるなら当然に「何が欲しいか」とか「何が好きか」とか「何がしたいか」というものも無意識レベルで形成されているはずです。 自分で好きな

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現今の人々の哲学研究法

現今哲学的に考えるわれわれの青年たちや、女性たちや、芸術家たちは、ギリシア人が哲学から受け取ったのと正反対のものを要求するということに、私は十分気がついている。 曙光 544 序 現今(げんこん)の人々の哲学研究法ということで、活字中毒期の個人的な哲学的思索、哲学研究について触れていきましょう。 普通、哲学研究というと過去の哲学者が提唱した概念を学び、知り、それを踏まえて展開していくという風に想像されるところかもしれませんが、哲学の研究法は基本的には、日常、疑いをかけないことに対して疑問を抱くことから始まります。

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バラモン教とキリスト教

力の感情のための処方がある。第一に、自制することができる人々、それによってすでにある力の感情に精通している人々に対して。第二に、まさにこの感情が欠けている人々に対して。第一の種類の人間はバラモン教が世話し、第二の種類の人間はキリスト教が世話した。 曙光 65 この部分は、全体像が掴めればわかるような話ですが、予備知識無しでは紐解くことが難しいですね。書いている内容共々、こういうところがすごくニーチェっぽく感じます。ちなみにバラモン教と言うものはなく、便宜上の定義です。 まあよくスピリチュアリズムなんかで使われるよう

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宗教の起源について

事物について自分自身の意見をどうして啓示として感じることができるのか?これは宗教の発生の問題である。 曙光 62 序 宗教の起源は、埋葬やシンボルの登場、自然信仰、岩石信仰(巨岩信仰)などなどといったところですが、そうした原始的なものから、文化社会的な都合で妄想されてきたものがほとんどです。 理性では理解できないモノへの畏怖や未知のものへの恐怖を筆頭に、何かしらの感情、元を辿れば生存本能的な恐怖心が発端となり、妄想でそれを埋めるという事がなされてきたという感じでしょう。 本能的な恐怖心は残りつつ知能が発達したために

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思索家の廻り道

多くの思索家にあっては、その思索全体の歩みは、厳しく、仮借(かしゃく)なく、大胆であり、それどころか、時々自分に対して残酷である。しかし細部にわたると、彼らは穏やかでありしなやかである。 曙光 530 アイツこと自我は、危険回避を中心に汎用性の高い法則を好みます。 そういうわけで、若いときから様々な物事に対して「どうやったらいいんだろう?」という疑問がわくたび、「バッチリな答えはないかなぁ」なんてなことを思い、思索を繰り返してきたのではないでしょうか。 一人で思索することもあれば、誰かに相談して知恵を借りようという

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考えうる将来から

すごく単純なことなのですが、「夢と責任」などで、安易に夢を聞くこと自体が夢を潰している可能性があるということについて触れたことがあります。 幼い時、若いときの少ない情報量でカテゴライズされた中から一つを選ばせるということは、視野を狭め、その他の可能性を排除することになりかねないからです。 そんな時期に「将来の夢は何?」と聞くことは、様々な分野、可能性への興味関心を奪ってしまう可能性があります。 さて、僕が小学校低学年の頃は、インターネット自体が存在していませんでした。おそらく一応存在はしていましたが、まだまだ軍事利

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目的か?意志か?

たまに「今 集中」なんてなキーワードでサイト内検索が盛り上がっていることがあるようですので、今に集中するということについて書いていきましょう。 もちろん、「今やっていることに集中しろ」というような、義務教育的なお話ではなくて、今この瞬間に意識を集中させるというようなものです。 今に集中する場合、意識の集中のレベルによって、体感にも段階がありますが、途中で変な体感がやってきても、「今そんな変な体感があるだけだ」と考えてください。 でないと、あとで変な宗教にハマってしまうかもしれないからです。 全ての思考と感情をストッ

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誘惑者

正直はあらゆる狂信者たちの偉大な誘惑者である。悪魔の姿もしくは美しい女性の姿をしてルターに接近するように思われ、ルターがあのような無作法な仕方で自分を守るために防いだものはおそらく正直であったのであり、しかもひょっとすると、一層珍しい場合ではあるが、真理でさえあったであろう。 曙光 511 誘惑者ということで、キレイになろうとするような人について触れていきましょう。美貌こそが誘惑の武器であると思っている人たちです。 エステ経営者に聞いたことがあるのですが、美しくなろうという動機は同じであるものの、すごい恐怖心のもと

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不足感や願望は「過去からの因果」という思い込み

一月ぶりになりました。曙光シリーズを進めようと思ったら、実家に置いてきていたようでした。ということで、哲学カテゴリでも良かったのですが、あえて「うつ」テーマとして、根本的なことについて触れてみましょう。 だいぶ前に「ストレスは溜まるものではない」みたいなことを書きましたが、何となく意味は伝わっているでしょうか。 そんなものは実在はしないのです。そして、今現在、そうした思考なんかが再燃して今現在ストレスを感じているということや、そうしたことの繰り返しによる身体のダメージがあるだけで、ストレス自体が溜まっているのではな

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国家をできるだけ少なく!

われわれの時代は、経済について語るだけ、一個の浪費者である。それは最も貴重なものすなわち精神を浪費する。 曙光 179 文末 ある時から、消費が自分を高めてくれることには限界があることに気づきました。 つまり物やサービスを消費することで得られる面には限界があり、それらが自分を満たしてくれる程度には限界があるのだということをです。 そして、「社会のため」という大義名分は、非常に遠回りで、疲れるだけだということを感じました。 社会においてもっとも危険な洗脳の一つは、義務教育課程で教える側にいる人たちの思想です。 そのタ

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いつも幸福そうに見える

「幸福」 なんだか変な気分になる単語ですね。 まあ某集団のせいでさらに変な感じのする単語になってしまいました。 さらにいうと「最高」を「最幸」という人のせいでさらに変な気分になるようになってしまいました。 さて「いつも幸福そうに見える」です。 以前何かの記事で書いたかもしれませんが、最高の状態とか言うのがあるとすると、その状態というものは普通維持されずに下降の一途をたどるはずです。 「いつも幸福」とはどんな状態か? いつも幸福そうに見えるというよりも、いつも幸福なのはどんな状態でしょうか? たいてい心というか感情は

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偶然の人間

あらゆる発明の本質的な点を遂行するのは偶然である。しかし大ていの人間はこの偶然には出会わない。 曙光 363 どんなすごいようなことでも、考えて頑張ったからだと思うと、「考えて頑張ったからレベル」の結果しか生まれないでしょう。 いろいろ振り返ってみると、今ある全てが、偶然の要素がたくさん組み合わさって現象化しているはずです。 まあ生まれたことはさておき、誰かと友だちになったことも、今の仕事に就いたことも、偶然の重なりで起こっているはずです。 偶然の重なりによる現象化 例えば、今の仕事を選ぶまでの間に、なぜその仕事に

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祖先に対する批判

新しい世代は、祖先の見解を取り入れたばかりでなく、可能な場合には一層激しく取り扱うことによって、自分を感じはじめた。祖先に対する批判は、当時は悪徳であった。現在では年少の理想主義者たちは、批判ではじめる。 曙光 176 後半 あまりにも現実というものを軽視していることが、迷いの原因です。 普段現実だと思っていることは、様々な情報に起因してフィルターがかかった状態で「現実だと思っている」というのが、本当のところです。 何かを考え始める時、何かの文献を頼りにしろという方法論自体が、少しおかしいといつも思います。 それは

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