思考によるあらゆる緊張と現象の展開
本来、安らぎが当然であり、結局、緊張がなければ安らぎが表に出てきます。 無駄な緊張というものは、思考により生じます。四苦八苦のほとんどは、これら思考による苦しみを示しています。そして突き詰めればすべてがこういった思考や意識による苦しみです。 これはすべてが苦しみであるという消極的なことを示すばかりではなく、苦を示すことで安らぎを示すも

狂人たちの中にいて狂人にならずにいること
狂人たちの中にいると、狂っていないはずの自分がおかしな存在として扱われ、彼らと同じような狂人にならないと不快感が生じてしまうというような同調圧力がかかることがあります。 古くは中学生時代の体育会系的な圧力、その後も脳筋要素が強かった勤め人時代の職場もそんな感じでした。 最近では、介護関連でよく狂人に出くわしました。 狂人は狂人であるこ

吠えたける悪魔の取り扱い説明書
「吠えたける悪魔」はどこにいるかというと、結局は自分の内側にいます。 その構造を分解して考えればすぐに見破ることができます。 例えば、僕が父の中にいる「吠えたける悪魔」を浴びて何かしらの嫌な思いをしたとすれば、その嫌な思いという情報、「父をはじめとした家族との関係性において生じた何かしらのもの」がその本体になるわけです。 人を通じてや

デコピンで終わり
強くなるということは、大きくなるということです。 大きくなるということは、囚われないということです。 ー 時に、「どっちの選択が囚われないということなのだろう?」という難題がやってきます。 「どっちの選択をすることが『囚われていない』ということになるのだろう?」 というような感じですね。 そんな時は、「どっちの選択をすることが『囚われ

他人の都合と抵抗
他人の都合というものは厄介なものです。 何が厄介かと言うと、時に「自分を尊重する」というものと「相手を尊重する」というものがぶつかるからです。 抽象化して統合された都合を発見できればいいのですが、相手が狂っていたりすると、相手の都合ばかりが迫ってきたりします。 そうした感じで迫られた時に、「相手の都合や状況も理解できるからなぁ」と思っ

吠えたける悪魔との戦い
今に始まったことではありませんが、なぜか僕には吠えたける悪魔が常に挑んできます。 その吠えたける悪魔との戦いを何十年も繰り返しています。 おそらく元々は、父の中にある「劣等コンプレックス」や「愛着障害や承認欲求」のようなものです。そこに「社会的洗脳」というものが絡み、エネルギーの逃げ道を塞いでいます。 そのイメージが直接間接を問わず僕

知識の習得という逃避と内なるものへの実践
実践という言葉自体が、知識を用いて自然や社会に対して行う実際の行動、つまり知識を組み立てて形成した主義や思想を元に外界に働きかけること等々として定義されている感がありますが、そうした事を言っている人たちは、なんだか偉そうなことを言っているように見えて、単に逃げているだけであると考えることもできます。 厳密には逃げていると言うよりも「自

人の尊厳と可能性
本投稿で「雑記」400投稿目となりました。ということで、「人の尊厳と可能性」についてより身近に、そしてより深く雑記らしい雑記を書いていこうと思います。 最近「プロ意識が欠如している」というか、「もうちょっとしっかりしろよ」という人によく出くわします。 まあ職業というものをどういうふうに捉えているのかによりますが、たいてい「お金のため」

浦島太郎感からの脱却
ここ数年の僕は、まさに浦島太郎でした。ある程度頭が元に戻ってきた時、社会を見渡すと、「どこだここは?」というような気分になっていました。 コロナ環境やコロナ罹患、そして娘との生活とそれによる睡眠不足、母の脳出血等々、様々な要因によって頭が破壊され、一時的に世界の把握ができなくなりました。一度地に落ちたようなものです。その一部は「感染後

情報の破壊
気力や体力がない時、「治そう、回復させよう」と考えます。それでうまくいくときもありますが、うまくいかないときもあります。 それはマイナス要因が大きすぎる時です。 このマイナス要因というのは何かということを突き詰めると、意図の障害になっている情報状態です。 また、治しても治しても復活する体のこわばりや痛みがある時、特定の情報による慢性的

ドラえもん的視点
ふとドラえもん誕生の時の藤子・F・不二雄氏を思い出したのですが、その誕生の時の発想やマンガ自体が「現代の哲学がようやく追いついてきている視点」であることに気づきました。 大きく分けると ドラえもん誕生の時のF先生の思考 「タイムマシンがあったら未来の自分からアイデアをもらってくるのに」 という点、そして 「ドラえもんの世界自体がパラレ

現実を無視する
「なんとかなる」の続編です。 それは「現実を無視する」です。 「現実が変わらないのであれば困る」ということになりますが、その意見は自我の意見です。現実を変えるために「なんとかなる」と思い込もうとして、安心したフリをするというのは誤りです。 「なんとかなる」と心底思って安心して意識の向きが明るくなったのに、現実を確認してまた騒ぐというこ

思考や感情と私
思考や感情というものは、ただの反応にしかすぎません。 ただの反応にしかすぎないものを、あれこれこねくり回そうとすると、また反応が起こるだけという感じになります。 しかしながら、ひとまず暗い思考のループなり、不快な感情なりを「何とかしたい」と思っているからこそ、それを弄くり回そうとするという構造は理解することができます。 反応をしないで
既にあるものと心
無限にある既に形成された状態、そうした混沌と心について触れていきましょう。もちろん、ここで触れることは通常の思考では意味不明のように見える可能性もあります。そして、あえて証明の証明のようなことはパスしていきます。 まずこの空間は、いまただ単にあるものがあるという状態です。 それはこの瞬間に確定しています。同時に、時間というものもあくま

困難を乗り越えることについて
「困難を乗り越えること」についてでも触れていきましょう。いきなりですが、困難は、困難を欲した時にしか生じません。「何かしらの困難を乗り越えることで、何かを叶えたい」というものであっても、「こんな困難はコリゴリだ」という場合でも、いずれにしても、それらは「作り上げれたもの」にしか過ぎません。 困難というものは、それを支える「因」と「縁」

木漏れ陽が灼く影
この8月、なぜか昔お付き合いしていた方に二人も会いました。共に「ばったり」です。今でもキレイでしたね。でも、それぞれの方に特に思い入れはありません。 思い入れは無いのですが、やはりそれら方々に共通して「なんで?」という疑問がありました。 なぜか「ふっ」と気分が変わるんですね。 気持ちの上で何が変化するのかということがわかりませんし、分

「思い込みを外す」ということ
「思い込みを外す」ということについてでも触れていきましょう。世の中ではいたるところで「思い込みを外しましょう」ということが言われたりします。経営論を始め、メンタルケア的な分野、人生論的なところまで様々なところで、思い込みを外すというような点について語られています。 ただ、「思い込みを外す」ということについて、世間的な目線で近視眼的に捉
祝九周年
本ブログも九周年を迎えることになりました。ちなみにこれで2119記事目になります。今回は、単純に九周年というタイトルです。 祝八周年の時は2022記事だったので、この一年で100弱の投稿をしたことになります。 さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。コメントを寄せていただいた方やcontactからご連絡を頂いた方、また、ひっそ
第2100回投稿記念
これで2100記事目になります。ブログ創設から2100回目の投稿ということで「第2100回投稿記念」です。 前回の第2000回投稿記念は、2021年12月27日だったので、前回からの100記事は、1年と少しかけて投稿したという感じです。またローペースで、かつ、アフォリズムで少し数を稼いだ感はあります。 さて、常連さんいつもご高覧ありが
暇つぶしと集中力の分散による怒り
11月は児童虐待防止推進月間ということで、今年も少しだけ児童虐待防止について触れていきましょう(なお、昨年の「しないこと」への評価で触れていますが、個人的には言葉的には児童虐待防止よりも児童愛護の方が表現としては良いのではないかと思ったりします)。 根本的にこうした虐待については、怒りが根底にあります。倫理上虐待というものは、それほど
暇や退屈という苦悩
生きている限り、たいてい欲か怒りに纏わりつかれます。しかしそれらが静まっていても結局「暇」や「退屈」というモヤモヤしてどんよりとした苦悩がやってきます。 そうした暇や退屈な時間は、たいてい思考がめぐります。嫌な記憶ばかりが思い起こされることもあります。そしてまた欲や怒り、不安等々がやってきます。 そしてその思考を止めるため、思考を紛ら
「しないこと」への評価
11月は児童虐待防止推進月間ということのようです。個人的には児童愛護の方が表現としては良いのではないかと思ったりもしますが、直接的に虐待というものを防ぐということを意図しているので致し方ないのかもしれません。 個人的には「虐待をしないこと」への評価があまりにも意識されなさすぎているような気がします。 以前、「際限のない『何をどこまで』
情報的な大きさと「悲」の反応
情報的な大きさと「悲」の反応について触れていきましょう。 定義を示す順が逆になりますが、ここで言う「悲」とは、パーリ語のkaruṇā(カルナー)であり、慈悲の「悲」を意味します。「苦しみがあるのであればそれが取り除かれるように」というような思いです。 情報的な大きさというのは、いわゆるひとつの気の大きさであり、ある意味でのレベルの高さ
執著の抑制というよりも解放
見渡してみるとたくさんの物が周りにあります。 空観的な見方をすると「世界には自分しかいない」というようなことも成り立つ中、それらの物の属性を考えてみると、全てが「お役に立てれば幸いです」ということでその場にいると言うような感じになっています。 「もうお役には立てません」 しかしながら役割を終えたとでも言うべきか「もうお役には立てません

大いなる自己肯定
厳密には「大いなる自己肯定」の肯定の対象は自己ではないのですが、それ以外に近い言葉がないので致し方なく自己と表記した上で、大いなる自己肯定について触れていきます。 端的には「~から」という理由づけのない、根拠のない自己肯定のようなものです。 自己中心的な視点からのスタートし、より全体へと視点が広がり、また逆流し、最終的には自己に収束し

重圧の転嫁
罪と罰のラスコーリニコフのように、一種の重圧の転嫁が起こることがよくあります。そんな20歳前後の時の男性の心理状況を扱った作品は、小説や楽曲にも多くあります。 特に近代化してからが多いですが、それ以前の作品にもちらほら垣間見れるそれは、時に特定の思想を持ったものや自己顕示欲を満たすことを目的とした人に利用され、時に脳筋体育会系の優越感
微かでも大きな果報
因果応報という言葉は、どうしても胡散臭いカルト宗教などに利用されがちです。なので、あまり使いたくない感じがしますが、比較的最近、父から聞いた話で気づいた、しんみりした微かでも大きな果報について触れていきます。 うちの寡黙な方のおばあちゃんが存命の頃、二人でよく食事に行きました。おばあちゃんは、特にグルメであるとかはしゃいで騒ぐという感
偶然への気付きと必要なき裏付け
生きている中で起こる全ての出来事には偶然の要素が含まれています。この偶然とは思考の範囲外、自我による想定や判断の範囲外という意味くらいに考えていただければ良いでしょう。 自分が努力したからとか、努力しなかったからとか、才能があるとかないとかいった印象はアイツこと自我の判断であり、すべての要素を分解すると偶然要素がふんだんに含まれている
今すぐにはどうにもできないことへの評価
世の中には、外見や身分のようなものを判断材料にしている人がそこそこいます。その方が手っ取り早いということなのか、一種の恐怖心から「あちら側、こちら側」という壁を作るような感じで、時に拒絶し、時に許容します。 しかしながら、とりわけ身分的なものとして「今すぐにはどうにもできないこと」がたくさんありますし、直近の状況だけでその人の一生、全
「雑」の極みとしての発想
世の中には驚くほど雑な人がいます。近年では「失言」として取り扱われたりして後で撤回ということもよく起こっていますが、根本的にそうした失言は「うっかりしてたなぁ」といったものでもなんでもなく、本心から出た言葉であるというのが本当のところとなっています。 相手や社会のことはお構いなしで、自分の感情に正直、そして、偏見に満ちており、思ったこ