人類の新しい教育のために
たまに掲示板みたいなところに標語が貼ってあったりします。 標語を集めて意識を高めようというのは義務教育と公務員の発想ですが、実際に選考に関わる審査員はやっぱりギムキョなので、何が問題かということに気づいていないことがよくあります。 たとえばこのような標語ですが、まず「君なんだ」ということで、どうして他力本願なのか、という疑問が残ります。 つまり、「あなたはしないんですね」というようなツッコミが入ることを想定していません。 逆に「僕なんだ
付加物としての結果
昔、人々は、行為の結果ではなくて、自由な付加物―つまり神の付加物であると信じた。これよりも大きな混乱が考えうるであろうか! 曙光 第一書 12 行為の結果ではなくて、それが「もたらされた」というような勘違いですが、どうしてそのようになるかというと、アイツにはその因果関係が理解不能だからです。 それよりも少し小さい混乱としては義務教育の混乱があります。 「みんなで頑張ったんだから成功したんだ」というようなものです。 どう転んでも失敗という
民間道徳と民間療法
民間道徳であっても、それが心をきれいにするようなことであれば、基本的には問題ありません。基本的には問題がないのですが、それを条件化してしまうので、最後の壁で結局逆戻りしてしまうことがあります。 たとえば、苦しんでいるような人を民間療法で苦しみを一時的に解除することはいいですが、その民間療法を条件にしてしまうとそれに捉われていきます。 ということで、民間療法と言っても精神・心に関する療法(?)のようなものとして占い・占い師についてでも触れ
倫理の感覚と因果関係の感覚との相互運動
倫理の感覚と因果関係の感覚との相互運動ということで、ニーチェはまさに曙光のこの項目で、核心に迫るようなことを言っています。 「必然的な作用を把握する」、つまりあるがままの因果関係だけ把握できれば、アイツの特性である、空想的な因果関係が破壊されるということについて触れています。 空想的な因果関係を観察する 「空想的な因果関係」とは先に触れたような風習によってもたらされる倫理的規定からもたらされる妄想であり、アイツの得意とする「関連思考」に
風習の倫理の概念
倫理とは、いかなる種類の風習であるにせよ、風習に対する服従より何ものでもない―。 風習とはしかし行為と評価の慣習的な方式である。慣習の命令が全くない事物には、倫理も全くない。 曙光 9 一部抜粋 さて、風習とはいったいどのようなものでしょうか。 「風習とは、行為と評価の慣習的な方式である」という感じでニーチェは語っていますが、まあたいていは各地域、土地ごとの文化的な風俗習慣を略して風習と呼んでいます。まあいわゆる「ならわし」ですね。 風
変容
「ずっと変わらないもの」というものはありません。それは自分が過去との対比との中で変化を検証している対象のみならずです。 変容(へんよう)とは、一応姿形が変わることを意味しますが、変化との違いとしていろいろな説明がなされています。変化は物理的変化であり、変容は質的変化であるという定義や、変化は可逆性をもつが、変容は不可逆性を持つというような感じです。 変化と変容 例えば粘土やプラスチックを変形させる場合は変化で、人間の性格が変わった場合は

ONE LIFE
ONE LIFE/the pillows 昔は家の前にも蛙や蝸牛がいました。もう20年くらいは見ていないような気がします。母校も昔は校舎裏が森のようになっていました。今ではその面影もありません。 母校もそうですが、観光客への見栄か、地元の「無菌状態」を好む人のヒステリーかわかりませんが、京都中が整備されすぎて、どんどんその土地らしさがなくなっていきます。 高級料亭の日本庭園も、川床も、高級ホテルのロビーから見える眺望も、結局、視界が開け
空間感情の学び直し
たしかなことは、最高の幸福と最低の不幸の間の空間の広さは、想像された物の助けを借りてはじめて作り出されたということである。 曙光 7 一部抜粋 最高の幸福を自己啓発ウェーイは「最幸」と書きます。それだけで新興宗教のような胡散臭さが拭えません。たしかなことは、最高の幸福は、群れてウェーイすることではありません。 幸福と不幸の間に空間があって、その間には多様な感情があるというように定義されそうですが、不幸な状態というのは、引用のとおり「想像

第300回投稿記念
またまた特別企画中かつ、書庫の作成中ですが、これで300記事目になるので少し中断して、第300回投稿記念の回にしようと思います。中断というよりも、合間合間に普通のやつを挟んで行くつもりですので、あまり関係ありません。 常連さんいつもいつもご高覧ありがとうございます。 早いもので記事は300になりました。一周年までにどれくらいになるのかが気になるところです。ちなみにほとんどの画像はクリックすると画像のページに飛びます。そこで軽くコメントし
書庫の作成
特別企画中ですが、投稿時期にとらわれないようにカテゴリ別のページ送りを設けました。特別企画中は、なるべく連続して投稿しないと前後ページの一貫性が保たれません。 それを気にしないでおくためと、一応全記事一覧を設けてはいるものの、数が増えると内部リンク構造を見直さないと埋もれてしまうものが生まれるのではないかということで、さらなる内部リンク構造としてカテゴリ別の前後ページ送りを設置しましたが、現在10/23日です。つまり溜めて出している証拠
奇術師とその反対
マジシャンの方は、複雑な因果律を単純な因果かのように見せ、学問は単純な因果律を複雑なように見せて単純な因果律を放棄させる。 ニーチェはそのようなことを言いましたが、これはアイツの特性でもあり、また単純に大学の授業のことを言っています。 ということで簡単なことを難しくし、単純な因果律を放棄してしまうということについて触れていきましょう。 単純な因果律を放棄してしまう 「学問は単純な因果律を複雑なように見せて単純な因果律を放棄させる」 最も
感謝しなさい!
どうして命令されなければならないのか、多感なティーンの頃には悶々と考えなければなりません。 感謝というものはこちらが一方的に即時的に、わき上がってくる性質のもので、「感謝しなさい!」の一言は、感謝している素振りをしなさい、ということになってしまいます。 どれだけありがたい状況か考えてみなさい もしくは「どれだけありがたい状況か、考えてみなさい」ということですが、そんなことは「笑いなさい」で有名な瀬戸内寂聴氏のコラムにとどめておいていただ
夢想された天体不調和に反対
ニーチェは時々こういった、自称アーティストの劇団員がソーシャルネットワークでつぶやきそうなことを言います。ただ、これはタイトルであって、続きがあります。彼には彼なりの考えがあったので、今回は引用します。 夢想された天体不調和に反対。―われわれは多くの誤った雄大さを再び抹殺しなければならない。それはあらゆる物がわれわれに要求する正しさに反対するからである!そこでこのためには世界を事実以上に不調和に見ないようにすることが重要なのだ! 曙光
物には時がある
物が物として存在するためには時間が必要になります。 すごく簡単な話で、認識するためには時間が必要だからです。 認識がなければ物は存在していようが、存在していないのと同じです。五感のうちのいずれかに認識されなければ、無いのと同じです。 そしてほんのわずかでも認識には時間が必要になります。ストップウォッチでは測れないほどの時間かもしれませんが、時間が必要になります。 もし時間という解釈がなければ、五感は働きようがありません。時間の解釈は一応

学者の偏見
ある研究が始まり、そのことは研究し尽くされている、ということは正しい意見ではありますが、昔より今の方がその分野への理解は進んでいるというのは全く誤謬で、さまざまな方法論的なジャンルやデータはたくさん膨らんでいったとしても、それは表現が変わっていっただけで一切進歩していない場合もあります。 さらにはそれどころか、元々は純度が高かったものが、「あるランクまでは学ぶ」ということをしていった結果、余計な不純物が混じって、結果の表現がおかしなもの

つけ加えられた合理性
事物はそれが人に観察された時に解釈が生まれ、人に観察されるにつれて、「法則性」が発見され、他人に指し示しうるものとして扱われ始めます。 今その場で起こる現象の解釈が、もし誰かから教わった「法則性」というものの影響を受けないのならば、その場で起こる感情は、純粋なものになります。 一見合理的な行動も、それによって得れうる結果についての合理性が正しくても、その結果を欲し、「行動すること自体」は合理的なのでしょうか。もしかしたら「他人につけ加え

特別企画 その5
投稿数で言えば普通の投稿より特別企画だらけになっていますが、文字数が全然違うということから分かるように、趣旨が違います。 基本的に特別企画は、普段なら出てこないようなことを絞り出すために、ある種の制限と、ある種のブースタ―としての形式を設けて、内側から絞り出そうという趣旨があります。やはりブログ形式で「どこまで一応のオリジナルコンテンツ」を作れるのか、ということがひとつの面白みでもあります。 それまでのものとは違い、特別企画その4である
保証期間は1年です
たいていの家電などはメーカー保証が1年になっています。 この「保証期間1年」というものに関してトラブルがありました。 昔学校で習ったのですが、隠れた瑕疵(欠陥)については、変に販売店保証などをつけると、瑕疵担保責任の特約になって「知ってから1年」ではなく、契約時に設定した期間に限定されてしまうというようなことを聞きました。 参考までに瑕疵担保責任について 瑕疵担保責任 第570条 売買の目的物に隠れた瑕疵があったときは、第566条の規定

どせいさん
どせいさん もちろんこの方。 MOTHERシリーズでおなじみになったどせいさんです。 「380どる あったら うらかんぽー かえるのになー。1780どる あったら いのちのつのぶえ かえるのになー。」というようなことで有名ですが、「ぐんまけん!」や「もういちど ぽてんしゃる!」などの短文ももっと有名です。 そんなどせいさんですが、以前、祖母の家に行ったときにどせいさんを発見しました。 ただそれだけなのですが、ついでにMOTHERシリーズ

飯に行く
中学生の頃からでしょうか、昔から「今度、飯でも」という言葉には違和感を感じていました。 何かと「飯にでも」という言葉が使われますが、まず前提として食事自体はなるべく一人がいいと思っていたりもします。 それはさておき、社交の場においては、どうしても「まあまた今度、飯でも」というような言葉が使われたりします。それで、その「今度」があった試しは無いとは言いませんがほとんどありません。 そういえば幻冬舎の見城さんとサイバーエージェントの藤田さん
差がわかる
アイツこと自我とは、何かと何かを分ける機能ですが、ここで重要になるのは差がわかることと、差をつけてしまうことは全く別物だということです。差がわかるのは機能が純化されているだけで、差をつけてしまうのは観念による判断、という思考の産物だからです。 音楽をやろうという時に、耳コピができない人がいますが、僕はそれが信じられません。何十本も楽器があるような曲なら、スコアを見ずに耳コピすることは時間の無駄のような気がしますが、巷にあるような曲で、な
友達申請とお知らせ
「人脈を広げたく友達申請をさせていただきました。よろしければよろしくお願いいたします」 SNSはほとんど触りませんが、こういった類のメッセージがよく送られてきます。月に数件でしょうか。それどころか社長同士の集まりに行ったりすると、その名簿を見て検索してただ友達申請してくる人もいます。 名刺交換すらしていないのに友達申請をしてくるという感じですが、どういった神経をしているのでしょうか。 いずれもロクでもない人なのは明確なのですが、こんなも

本とマンガ
親戚に究極なギムキョな人がいるのですが、確か二十歳頃に「マンガはよくない」というようなことを言われたことがあります。その頃は毎日のように本を読んでいましたが、マンガが良くないと思ったことは一度もありません。むしろ本よりも表現が多彩なのでよい表現方法だと思います。 公式的なものを示す場合には「無駄が多い」ということになりそうですが、日本の都道府県を覚えるには本を読むよりも桃鉄をしたほうが確実に覚えられるように、それを経験していない人にはわ
和歌山県 2006
2006年、「思い起こせば近畿圏でツーリングに行ってない場所がある… 」と、いうことで衝動に任せて行ってきました和歌山県。 深夜発で早朝に着きました。 往復で約265㎞、走行中気温は0度前後、骨まで冷え切りました。 でも昔行った福井県よりはマシでした。 今回は何よりセルフのスタンドが多くてガス欠の心配が無くてよかったです。 到着後、和歌山城にて朝日を眺めた後、ファミレスにて朝食、30分の仮眠。 その後市内をぐるぐる。 でも朝のため店はど

花との思い出
花束のある生活がいい。 行きつけの花屋さんは素敵。 真剣な眼差しの奥に、試行錯誤を感じる。 微かに浮かべる微笑に感情を感じる。 その指先は直感に任せる様に作品を創りあげていく。 ふと「これなんですか?」と尋ねた花に見えぬ花。 「ここに置いてある中で一番好きな花なんですよ。」 と笑顔な彼女。 こういう生活はどんな毎日なんだろう? 昼間から酒を飲む一日。 真の美しさを知らなくても、心はどこかで動いてる。(2006年03月) グリーントリュフ

動物たちとのあれこれ
ボーダーコリー ボーダーコリーと言ふのか、犬がゐる。 どうやら通りすがる度に相手をせぬと、ワンワン吠えるので、相手をしてみると、去り際には三倍キャンキャン鳴く。 「これは愉快だ」と態と相手をせずに去るのを日課にしてゐたのだが、氣まぐれに偶には相手をしてやらうと、近寄つてみると、汚物を口に咥えてゐる。「おひおひ、假にも君は女子ではないか」との助言も聞かずに咥えては放しの繰り返しをしてゐた。なので永久に放置をしようと心に決めた次第である。
悲劇対喜劇
岩波の「図書」八月号の頭に「悲劇対喜劇」というのがある。(2008年8月)一部を引用しよう。 「人間が今日の現実に耐えて明日を迎えるには、涙で浄化し笑いで和まなければならない。 ― アリストパネースの古喜劇の笑いは和むには激しすぎる、と現代の私たちはつい思ってしまうが、当時のアテーナイ市の社会状況はそれだけきびしく、市民はそれだけ強くなければならなかった、ということではないか。悲劇も喜劇もそれだけきびしく強くなければ、涙にも和みにも値し

中国旅行記 上海
中国旅行記「上海」です。 SNSで友達の友達だった人が、生まれ年も誕生日も全く同じということで、メッセージを送ってみました。そして、その時上海にいるということだったので行くことになりました。全く同じ日に生まれているのですが、こちらはあちらの地元の大学、あちらはこちらの大学と、そういうところもなんとなく感じるものがあったので、すぐさま航空券を買いました。 ― 上海滞在中は、豫園、七浦路服装批発市場、上海音像城、上海環球金融中心、田子坊(泰
	中国旅行記 北京
中国旅行記「北京」です。 大連から中国の国内便の飛行機に乗って北京市内へ。天安門や万里の長城に行きました。北京市は言わずと知れた中華人民共和国の首都です。 写真は別ページにまとめてあります。 2010 北京 北京 中国に冒険に行った際、基本的に滞在したのは大連ですが、合間に国内便で北京まで行きました。思いっきり雪が降ってます。 そういえば、空港で液体物系はすべて没収されたので、こっちに着いた時、セブンイレブンを見つけて「よっしゃ!」と盛
	中国旅行記 大連
中国旅行記「大連」です。 大連市は、中華人民共和国遼寧省南部の街です。中国の北の方にあります。 大連旅行中、その大半を現地にいる中国人の友人に案内してもらうような形になりました。友人の勤める企業にお邪魔したり、餃子の王将や吉野家などに行ってみたり、射撃ができる所に行ったり、路面電車に乗ってロシア人街に行ったりしました。 餃子の王将や吉野家など 射撃場 路面電車とロシア人街 写真は別ページにまとめてあります。 2010 大連 大連 関空か
