実見
困った!困った!われわれが最もよく、最も頑固に証明しなければならないもの、それは実見である。というのは、あまりにも多くの人々には、それを見る目が欠けているからである。しかしそれを見ることはとても退屈である! 曙光 253 実見とは、その場にいて目で見て確かめる、その場に居合わせることで実際にそれを見るということになりますが、「見ることは退屈で、見る目が欠けている」ということで、この実見について触れていきます。 ひとまずは「退屈」の路線から見ていきましょう。 一種の退屈 目の前がただの絵や動画のようになった時、そこに
考慮せよ
罰をうける者は、行為をしたものともはや同じではない。彼はいつも罪を贖(あがな)う山羊なのである。 曙光 252 「本を読めば、本を読む前とは別の人間になる」、よく言われるキャッチコピーのようですが、確かにある経験をする前とした後では、当然に別の意識を持っているので別の人間になります。 本を読む前と読んだ後では、意識の中に入っている情報内容が変化するので、少なからずは変化するはずです。 しかし、癖というものはなかなか取れません。 これは、行動の元になった原因が消滅していないと、また同じようなことをするという因子を内在
ストア主義的
ストア主義者が、自分で自分の行状に命じた儀式ばった態度のために胸苦しく感じるときに、ストア主義者の快活さが生じる。彼はそのとき、自分を支配者として享楽するのである。 曙光 251 一種の苦行による快楽のような構図です。自制、自戒により自らを知的で本能に支配されていないとの「確信」を得るための一つの指針が、胸苦しく感じる瞬間です。自分で自分に命令しているという、支配者としての自認という構造になっていますが、支配していると思わなければならないと渇望している根底には、コントロールしなければならないという、条件付け、そして
夜と音楽
昼に聞く音楽より、夜のほうがなぜか盛り上がってしまいます。 よく言われるのは、日の明るい内、特に午前中は思考が優勢になり、日が暮れてくる頃からだんだん夜になるにつれて、感情が優勢になってくると言う点です。 だからこそ、感情的になりそうな話し合いは午前中にした方がいいと囁かれます。確かにその方がいいかもしれませんね。 しかし早朝というものもなかなかいいものです。騒がしくなく、いろいろなモノに耳を澄ませるには最適な時間帯でしょう。 例えば「ソラニン」一つとっても、昼間、夕方、夜、早朝で少しずつ趣が異なってきます。 ソラ
教育のために
われわれの流儀の教養や教育の最も一般的な欠陥が、次第に私に分かって来た。だれも学ばない、切望しない、教えない― 孤独に耐えることを。 曙光 443 孤独は耐えるものではなく気づくものです。引用には孤独は苦しいものだという前提があります。孤独でなかった試しはありません。そしてその孤独はただの事実であって、苦しいものという属性は恐怖心からの結論です。そんなものに信頼をおいてはいけません。 しかしそれ以前に、教育では「みんないっしょ」「みんなで一緒に」が、たくさん教えられます。あたかもみんなで一緒にやらないいことがおかし
規則
「規則は私にとっていつも例外よりも興味がある」― こう感じる人は、認識が広く進んでいる人であって、大家に属する。 曙光 442 規則というものは何のためにあるのでしょうか。世の中には意味のわかる規則と、意味のわからない規則、そして、ギムキョ(義務教育の成れの果て)な発想の規則と、タダのわがままの部類に入る規則があります。 「規則を守れ」と声高々に言うことはいいですが、その規則がどういう趣旨のものかもきちんと説明できないと、僕のような中学生などに相談室で数時間拘束されることになります。 規則的には合理性があっても、ギ
身近なものがますます遠くなるわけ
家族がいる人には、「家族」というものは嫌でも身近にいてしまいます。離れて欲しくても近くに寄ってきます。 「家族には寄りつかれる」という属性を持っていますが、家族だからといって気が合うかどうかは別問題です。ほとんどの場合は気が合わないでしょう。気が合いすぎるというのも、自分よりも子どもや両親などを優先してしまう要因になるので、適度な距離を置かねばなりません。 近くにいる者同士ほど軋轢が生じるのは当然のことです。国家間一つとっても近隣諸国とは仲が悪いのに、遠く離れた国とは仲がいい、ということはよくあることです。家が隣同
義務としての偽装
親切ということは、親切に思われようと努める長い間の偽装によって、最も多く発展せしめられてきた。偉大な力が存在したところではどこでも、ほかならぬこの種の偽装の必然性が認められた。 曙光 248 前半 特に偉大な力でなくとも、偉大な力かのように見せる集団での圧力と、そのイメージからの習慣による「疑いも呼び起こさない常識」が、親切に思われようとする一種の偽装的な生き方をするように、自然の中に溶け込んでいるかのようになっています。 「親切さ」は恣意的な別の目的のために偽装されることもあります。しかし一方でそうした可能性ばか
誰が一体いつか孤独になろうか!
恐怖心をもつ者は、孤独とは何であるかを知らない。彼の椅子の背後にはいつも敵がいる。― おお、孤独と呼ばれるあの繊細な感情の歴史を、だれがわれわれに語ることが出来ようか! 曙光 249 孤独が嫌だからといってある対象と一つになりたくても、それには限界があります。いくら近づいてもそれ以上は近づけない、そして同化したくてもできないということは、想像しただけでも十分にわかります。 意識の上である程度同化するようなことはできます。しかし、一つになったわけではありません。 ― 孤独とは一体何なのでしょうか? 孤独とはもちろん「
悪い気質の由来
多くの人間の気質の不正なところや突飛なところ、彼らのだらしなさや節制のなさなどは、その祖先が犯した無数の論理的な不正確や、不徹底、また性急な推論などの究極の結果である。 曙光 247 前半 論理的な不正確というものは、それがどう不正確なのか知るには、通常は正確な論理というものが必要になります。しかしその不正確は、論理思考の不徹底からという原因が、容易に想像されます。つまり不正確か否かは、確定はしていないものの、「不徹底であるから、確定的ではない」ということは理屈ですぐに分かります。 この方法論をもって、すぐに盲信と
アリストテレスと結婚
偉大な天才たちの子供には狂気が、偉大な有徳の人々の子供には愚鈍が突然出て来る。― こうアリストテレスは述べている。彼はそれでもって例外的な人間たちに結婚を勧めるつもりであったのか? 曙光 246 アリストテレスの師匠の師匠「ソクラテス」の奥さん、クサンティッペさんは相当の悪妻だったようですが、ソクラテスは「良い妻を持てば幸せになれる。しかし悪い妻を持っても哲学者になれるよ」と自己啓発に洗脳されたレベルのポジティブシンキングをしていました。アリストテレスの奥さんはピュティアスさんと言うそうです。 妻子について 妻子と
力の感情の鋭敏さ
権威にぶらさがったりしている人の取る態度は虚しいモノがあります。権威にぶらさがっていることも醜い態度ですが、権威の目から離れた瞬間に横柄になるという態度が最も冷笑の対象になります。 ある種の力が欲しいと思うことは、弱者であることを認めている、つまり弱者だと自認しているようなものです。 特に経済社会では、極めて力を欲していることがバレている人がたくさんいます。いつでも横柄も嫌われますが、謙遜と横柄という両極面を見せられた側は、一気にその人への信頼がぐらつきます。 力の魔物 本当は威張りたいのに、そこまでの実力がないか
去就に迷う
去就に迷う。 ー 「この仕事はやっていられないが、食い扶持が無くなるのは困る」、さあどうするか。 世間でもよくありがちな「身の上をどうするか」というこの命題に対しての回答は、「すぐに辞めろ」です。 イライラや焦燥感、恐れなどを解消するために稼いでいるのに、その稼業によって、イライラや焦燥感などが出てきているのならば、もっと良い仕事を探すべきです。 仕事に限らず、それがコミュニティであっても、パートナーであっても、それまでの歴史・実績的なものは頭から外して、これからの身の上をどうするかを考えねばなりません。 詐欺的と
いわゆる「自我」
いわゆる「自我」ということでアイツこと自我について触れていきましょう。 まず、自分とは一体どこにあるのでしょうか? 認識している主体でしょうか? しかし、この主体は受け取っているだけで、しかもこれ以外に認識の間口はありません。 個人という人格は、外部からのラベリングや関連性を示されたもので、カテゴリなどから付けられた様な属性は、属性であって、自分ではありません。以前少し触れましたね。認識の悲劇の終幕 生存本能に支配され、恐怖心にやられ、渇望感は沸き起こり、それを消すことがなかなかできない、やっているつもりがやらされ
現実的なものを喜ぶ
評価は評価として「現実的なもの」として扱われますが、その評価からの喜びは、頭の中で「作り出しているもの」です。喜びも作り出しているのだから、苦しみも頭の中で作り出しているものです。 温泉につかるように直接心地良いというわけではありません。温泉での心地よさも、結局は体からの信号を感じているだけですから、さほど変わりありません。 しかし、どうしてわざわざ苦悩を抱えて基準を作り出し、その基準が満たされた時にだけ喜ぼうとするのでしょうか。 ただでさえ体は自分の意志とほとんど関係なく基準を設けています。その基準は生命維持とし
二つの方向
もしわれわれが鏡それ自体の観察を企てるなら、われわれは結局鏡に映った物以外の何ものをも見出さない。もしわれわれが物を把握しようとするなら、われわれはついに鏡以外の何ものにも到達しない。― これが、認識の最も一般的な歴史である。 曙光 243 一般的な「物の把握」ならばそのような形になりそうですが、視覚情報は光の情報です。慣れれば立体感を消すことも、光としてのみ把握することもできるようになります(空間認識をちょっとだけ突破)。 感覚というものは不思議なもので、前後と上下の空間認識にも大きな違いがあったりしますし、集中
自主
自主(その最も僅かな服用量では「自由の思想」と呼ばれる)とは、権力を好む者が結局受け入れる諦めの形式である。― 支配することの出来るものを長いこと求めて、自分以外の何ものをも見出さなかった、その彼が。 曙光 242 自主は自主以外の用途で使われることがあります。プライドを保ったまま服従するために、自己説得を行う場合と、「任意という名の強制」を支配者側がこれもプライドを保ったまま、美しく見えるように、また、法の穴をくぐり抜けるために用います。 自主的にという場合には、本当に自分発端で行うものです。しかし「自主的に動け
恐怖と知性
恐怖心を抱く度合は、知性のひとつの分度器であるから。そして、しばしば盲目的な怒りに身を委ねることは、動物界がまだ全く近くにあり、それが再び確かな地歩を占めたいと思っていることのしるしであるから。曙光 241 抜粋 ある対象について、それがうまくいくか、どのようなものなのか把握できていれば、大半の恐怖心は和らぎます。「それがうまくいくかどうか」という把握したい気持ちがなければ、恐怖に駆られることもありません。 だからこそ若干大雑把であっても常に今に集中しておくべきなのです。なぜなら、そうした恐怖心は過去の記憶や未来へ
諦めるな!
「諦めるな!明らめろ!」というような、言葉遊びをするつもりはありません。そういうちょっとした落語家のようなことして興味関心を惹こうというようなことがよくソーシャルネットワークで行われています。 今回は、気合と根性で突き進みつつ、どうもうまくいかない時の対処法について触れていきましょう。 世の中では様々な方法論が語られていますが、実務的なことは実務的なこととして参考にしてもいいですが、それよりももっと簡単で今すぐにできる実践的な事柄をお伝えします。 うまくいかない時の対処法 休んでください。 以上になります。 ウソの
幸福の目印
あらゆる幸福感の共通点は二様である。感情の充実とその点の自負とであり、それ故にわれわれは魚のように自分の本領を身の回りに感じ、その中で踊る。 曙光 439 前半 何度か触れていますが、「幸福」という言葉が苦手です。その言葉には「良いことがあった」というような、「今までにはなかった」という認定があるからです。すなわち、それまではダメでその後に良いことが起こったというマイナスからプラスという構造が潜んでおり、常日頃は不幸であるという認定をしてしまうということもあるという感じです。 それに加えて「幸福」という概念を宗教屋
舞台の道徳について
舞台、狭義には演劇を観ることには特にお金をかけたことはありません。 出演者が同級生、という誼で何度か行ったことがありますが、やはり体質的に合いません。悲劇対喜劇という項目で少し引用しましたが、かつて演劇には「感情の解放」という目的があったのでしょう。喜劇なら笑いに、悲劇なら悲しみや恐怖心をぐっと捉えることによって、感情移入による心的エネルギーの解放という役割があるような気がしますね。 ところが、ことに演劇を見せられると、そこで感じるのは悪寒しかありません。上手い下手というよりも、演劇そのものがもっている、日常とは異
道徳学者への忠告
われわれの音楽家たちは大きな発見をした!興味を引く醜さは、彼らの芸術でもやはり可能なのである! 曙光 239 冒頭 「フックとしての醜さ」という手法が取られるようになりました。違和感を覚えさせることによって、興味関心を惹くという手法です。怒りやがっかりすら使われるようになりました。アイドルにボクシンググローブを付けさせるような手法ですね。 そうした手法を垣間見た時、ふとイワン・シャポヴァロフ氏を思い出したりしてしまいます。 t.A.T.u.とイワン・シャポヴァロフ氏 そういえば、十年ちょっと前にt.A.T.u.とい
優美への努力
もし強い性格の人が、残酷への傾向をもたず、いつも自分自身のことにかかわるのでないとすれば、彼は知らず識らずのうちに優美を求めている。― これが彼の目印である。弱い性格の人は、これに反して辛辣な判断を好む。― 彼らは、人間軽蔑の英雄たちや、存在を宗教的または哲学的に誹謗する者たちの仲間になるか、または厳しい風習や苦しい「職業」の背後に引っ込む。こうして彼らは、性格と一種の強さを得ようと努める。そして彼らは、これを同じように知らず識らずのうちに行うのである。 曙光 238 「人間軽蔑の英雄たちや、存在を宗教的または哲学
党派の悩み
友人との雑談の中にも、内容に少し社会的なことが混じるといきなりギクッとせざるを得ない時を迎えることがあります。それは、当の友人のご両親などに「君、政治に興味ないか」と迫られる時がある、という場合です。 これは一種の宗教勧誘のようなものであり、信者とは言わず党員になれという脅迫の瞬間です。そんな時にはすぐに「無いです」と答えねばなりません。 友人のお父さんを論破したところで、何の実りもありません。かといって、ある程度の意見が同一であっても、同調などしてしまえば何かの集会に参加させられたりなど、ひとつの駒としての役割を
罰
不思議なものだ、われわれの罰というものは!それは犯罪者を浄化しない。それは罪滅ぼしにはならない。それどころか、それは犯罪そのもの以上に顔に泥を塗る。 曙光 236 罰則そのものはどちらかというと、事後的な「更生への導き」や「罪滅ぼし」という規定というよりは、最後の一歩、つまり行動のゴーサインを出すことに対しての「予防的、抑止力的な意味合いが強い」ということは最近ではたまに出てくるようになりました。 さて、この項目では、まさに白靴下か黒靴下かでの一悶着の時のような、事柄についてつぶやいています。 具体的な罰則規定が無