カテゴリー別アーカイブ: 第二書

曙光(ニーチェ) 第二書 曙光(ニーチェ)全記事一覧

理性

どのようにして理性は世界に入り込むようになったのか?当然のことながら、非理性的な仕方で、偶然によって、である。人はこの偶然を謎同様に解かなければならないであろう。 曙光 123 苦悩の元凶は理性ですが、一般的には理性ほど素晴らしいものはないとされています。 理性があると、身の安全を確保できると思っています。 「理」に関するものですから、「物を手から離すと下に落ちていく」と知っていることもある種の理性です。そういった様々な「理」に沿った考えをしようということですね。 マナーとされるものは、一見本能的には合理的ではない

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自然における目的

偏見のない探求者として、最下級の生物の眼および眼の形態の歴史を追い、目が徐々に発達してゆくその全体を証明する者は、見るということは、眼の発生のときの意図であったのではなく、むしろ偶然が器官をまとめたとき姿を現わした、という大きな結論に到達せざるを得ない。たったひとつのそのような例ではあるが、われわれは「目的」という迷いの夢から覚めるのである。 曙光 122 ご無沙汰しております。なかなか更新のタイミングがなく、やや停滞気味ですが、元気にしています。 「目的」という迷いの夢というのが興味深い箇所ですね。 さて、引用は

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「原因と結果!」

われわれは実際は「原因と結果」の像以外何ものも見なかった。そしてこのような像であることこそ、継起の結合よりも本質的な結合を洞察することを、たしかに不可能にするのだ! 曙光 121 後半 原因と結果、というドストレートなタイトルになっています。曙光においてニーチェがたまに「!」を加えるところは意気込みを感じますね。熱がこもっています。 今までも何度か原因と結果については触れていますが、タイトルが「原因と結果」だけに、もう少し詳しく書いていきましょう。 GDPの三面等価のように、諸行無常、諸法無我、一切行苦はそれぞれ別

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懐疑家を安心させるために

「私は、私のなすことが全くわからない!私は、私のなすべきことが全くわからない!」― 君は正しい。しかし次のことは疑うな。君はなされる!いかなる瞬間にも!人類はいつでも能動態と受動態とを取り違えてきた。それは人類の永遠の、文法に関する誤りである。 曙光 120 懐疑家とは、もちろん何でもかんでも懐疑的に見て懐疑的に思考し懐疑的に判断する人のことです。懐疑とは「疑うこと」になりますが、「懐の中では疑っている」という感じにもなるでしょう。 有名な懐疑論者は、サーリプッタとモッガラーナがかつて弟子入りしていた六師外道サンジ

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体験と創作

「1日体験」といったタイプのことをやってみると、その体験作業などをあまりに集中してやってしてしまうので、「ご興味が有るようですね」と言われて、その後に勧誘されてしまいます。 相手の言っていることを努めて理解しようということなのですが、不明点は質問し、理解したであろう内容を復唱して確認をとったりなんかすると、「よほど関心があるようだ」と思われるのでしょうか、その後はたいてい「支持者」として参加してくれと勧誘されてしまいます。 それが、政治主義思想や宗教の類なら、「普通は出だしから嫌な顔をするのに」と珍しがられるのか、

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一体隣人とは何だろう!

われわれは一体隣人について、彼の限界― 彼がそれでもってわれわれにいわば印づけ、印象づけるもののことを私は考えているのだが― 以外の何ものを把握するだろうか?われわれは彼について、われわれを変化させること― その原因は彼であるが、以外の何ものをも把握しない。 曙光 118 前半 「一体隣人」という字を見て「いっぽんでもニンジン」を思い出してしましました。「動物園の帰り道」で出てきた「およげたいやきくん」のB面ですね。 うさぎの場合は隣人ではなく隣兎ということになるのでしょうか。 そういえば最近、養子のウサギに人参を

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刑務所の中で

私の眼は、どれほど強かろうと弱かろうと、ほんのわずかしか遠くを見ない。しかもこのわずかのところで私は活動する。この地平線は私の身近な大きな宿命や小さな宿命であり、私はそこから脱走することができない。どんな存在のまわりにも、中心点をもち、しかもこの存在に固有であるような、ひとつの同心円がある。同様に、耳がわれわれをひとつの小さな空間の中に閉じ込める、触覚も同じことである。刑務所の壁のように、われわれの感覚がわれわれの一人一人を閉じ込めるこの地平線に従って、われわれは今や世界を測定する。 曙光 117 前半  「刑務所

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「主観」の未知の世界

太初の時代から現在にいたるまで、人間にとって非常に理解しがたいことは、人間の自分自身に関する無知である! 曙光 116 冒頭 人間の自分自身に関する無知ということですが、誰かに「自己分析ができていない」と言われることがあっても、そういう時の自己分析など、いわゆるカテゴリの中に自分を当てはめていくだけのことなので大したことではありません。 そういった人に触発されて自己分析を行い、その時に意識をあるカテゴリの中に当てはめてしまうと、それはそれで様々な「幅」を狭めてしまいます。 もしそういったある種の「特性」を発見したと

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いわゆる「自我」

いわゆる「自我」ということでアイツこと自我について触れていきましょう。 まず、自分とは一体どこにあるのでしょうか? 認識している主体でしょうか? しかし、この主体は受け取っているだけで、しかもこれ以外に認識の間口はありません。 個人という人格は、外部からのラベリングや関連性を示されたもので、カテゴリなどから付けられた様な属性は、属性であって、自分ではありません。以前少し触れましたね。認識の悲劇の終幕 生存本能に支配され、恐怖心にやられ、渇望感は沸き起こり、それを消すことがなかなかできない、やっているつもりがやらされ

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病人の認識について

病人に気を使いすぎると、かえってその人の治りが悪くなるという場合があります。病中のままの方がその人にとって都合のいいケースがあるからです。 そういう考え方の原因は、人にもよると思いますが、特に幼少期の記憶があります。学校はサボれる、テレビは見放題、ジュースとまではいかないがスポーツドリンクは買ってもらえる、周りが優しくなる、というような記憶です。 そしてもうひとつ厄介なのが、医者に通ってよくならないのに、まだ医者にばかり頼るという点です。もう特にできるようなことがなく、痛み止め程度しかしてくれることはないのに、病院

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優越への努力

優越感を刺激するものに対する批判への批判としてルサンチマンが使われたりします。つまり弱者の怨恨であり、「僻みだ」と居直るようなことです。そういった使われ方もあたっていることはあります。ただ、これは水掛け論であり、「見栄の塊だ」という批判への反論が「僻みだ」というのも、構造上決着がつきません。 優越感を刺激するものとして、経済基準で言えば資産・高級品や階級、資格や出身校のブランド価値的なもの、果ては住んでいる場所や生まれた世代まで、それぞれの基準に応じて様々な優越感の種があります。自分は強者だという誇りを支えるもの、

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義務と権利の博物学のために

義務と聞くと嫌な響きがしますが、たまに義務を根拠に何かの意見を主張してくる人がいます。体育会系の上下関係など、世間で勝手に義務とされているようなことであり、「そんな義務はどこからきたのか?」ということをまず聞きますが、法律上でも私人間なら権利義務関係は契約という概念がないと原則生じません。つまり双方の意思表示の合致ですね。言い換えれば特に私人間だと合意がないとそんなものは発生しません。 いい年をこいて、「駅まで車で迎えに来るはお母さんの義務だ」と、決まってもいないのに、また履行しないからといって、他の誰かにどう主張

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客観性の賛美者に

子供のときその影響をうけて育った親類や知人たちの、種々様々な感情や強い感情は認めたが、知的な正しさに対する鋭い判断や喜びをほどんど認めたことがなく、したがって感情の教養不足を取り戻すために最上の力と時間を費やした人は、成人したときどんな新しいものでも、どんな新しい人間でも、たちどころに彼の心の中に愛好、嫌悪、嫉妬、軽蔑を換気することに気がつく。この経験から圧迫され、それに無力感を抱いて、彼は感覚の中立性あるいは「客観性」を、不思議なもののように、天才または稀な道徳の事柄として賛美する。そしてこれもやはり単に訓育と習

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逆らうもの

ある組織や主義などと同化し、共通の敵を作ることによってアイデンティティ(自己同一性)を形成しようとしている人がいます。しかしながら、何かの主張を「叫ぶこと」や誰かに対して嫌がらせをすることくらいしかできません。 啓発活動をしても結局は「お知らせ」しかできないから、それしかできていないわけですが、本当に「何かを変える」というのは、彼らの目的としては二の次です。啓発活動をしたり、何かの主義や主張を叫んでいる人たちにとっては、何かに「逆らっていること」に意義があります。 自分たちでは本当に何かを変えようとしていると主張し

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自制と節制とその究極の動機

衝動の激しさを押さえるのに、本質的に異なった六つの方法より以上は見つからない。 (略) 機会を避けること、規則を衝動に植えこむこと、衝動に対する飽満と嫌悪を生み出すこと。苦悩を与える思想の連想を完成すること。次に力の転位。最後に全身的な衰弱と虚脱。― これが六つの方法である。 曙光 109 抜粋 ニーチェには残念です。衝動を解消するのには、この引用の方法論(①機会を避ける、②規則を衝動に植えこむ、③衝動に対する飽満と嫌悪を生み出す、④苦悩を与える思想の連想を完成する、⑤力の転位、⑥全身的な衰弱と虚脱)以外にもたくさ

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若干の主張

 個人がその幸福を望むかぎり、彼にその幸福への道についての指令を与えてはならぬ。というのは個人的な幸福は、独自の誰も知らない法則から湧き出るからであり、外からの指令によっては、妨げられ阻止されるにすぎない。― いわゆる「道徳的」な指令は、本当は個人と逆の方向であり、個人の幸福は全く望まない。 (略) 意識をもつ存在すべて(動物、人間、人類など)の発展において、特殊な、比較しがたい、高級でも低級でもない、まさしく独特な幸福が獲得されなければならぬ。発展は幸福を望まず、発展を望み、それ以上の何ものも望まない。― 人類が

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われわれの愚弄さに対するわれわれの要求権

世の中には薄口の人と濃口の人がいます。濃口は言うまでもなく絶倫Z会メンバーですが、薄口の人とは、男性にもかかわらずうどん屋で「わかめうどん」を単品で頼むような人であり、その大半がギムキョであることも傾向として挙げられます。 ギムキョギムキョと言いますが、その中でもさらに細分化されることは言うまでもありません。温厚なギムキョは「人畜無害」というあだ名を付けられるような人です。その名の通り、人畜無害なので、特に語られることもありません。 しかしながらギムキョの割に我が強い人がいます。そういう方は、何かの正当性を持ちだし

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道徳的な目標の定義に反対

現在いたるところで道徳の目標がほぼ次のように規定されているのを聞く。それは人類の維持と促進である、と。しかしそれはひとつの定式を持とうとすることでありそれ以上ではない。どこを維持するのか?と直ちにこれに問わざるをえない。どこへ促進するのか?と。ほかならぬ本質的なものが、このどこを?と、どこへ?の答えが、定式の中で脱落しているではないか!したがってこの定式を用いるなら、倫理学のためには現在すでに暗黙の内に無思慮に確定されたとみなされているもの以外の何ものが確定されるであろうか! 曙光 106 前半 本質的なものの定義

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見せかけの利己主義

大人数の人々は、彼らがその「利己主義」について何を考え、何を言おうとも、それにもかかわらず、一生涯自分たちの自我のためになることは何も行わずに、彼らの周囲の人々の頭の中で彼らに関して形作られ、そして彼らに伝えられた自我の幻影のためになることだけしか行わない。―その結果彼らはすべて一緒に、非個人的な意見や半個人的な意見、勝手な、いわば文学的な評価の霧の中で暮らしている。あるものは、いつも他者の頭の中で、この頭はまた他の人の頭の中で、というようにして暮らしている。奇妙な幻影の世界であり、それは同時に非常に冷静な外見を呈

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われわれの評価

あらゆる行為は評価にさかのぼる。すべての評価は、自分自身のものか、受け入れられたものかである。後者のほうがはるかに大多数である。なぜわれわれはそれらを受け入れるのか?恐怖からである。つまりわれわれは、それらのものであるかのような態度をとることが得策だと考える。そしてこの考えに馴れる。したがってこの考えは結局われわれの本性になる。自分自身での評価。これはあるものが他人にではなくて、ほかならぬわれわれにどれほどの快または不快を与えるか、という点に関してそれを測定することをいう。 曙光 104 抜粋 ニーチェにしてみても

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倫理の否定者には二種類ある

「倫理を否定する」― このことは第一に、人間の申し立てる倫理的な動機が実際に彼らを行為に駆り立てたのだ、ということの否定を意味しうる。 ― 第二に、それは倫理的な判断は真理にもとづく、ということの否定を意味しうる。ここで付け加えられるのは、倫理的な判断が実際に行為の動機であるということであり、しかしこの仕方で誤謬が、あらゆる倫理的な判断の理由として、人間を道徳的な行為へ駆り立てるということである。これが私の視点である。 曙光 103 抜粋 倫理の否定者には二種類ありそのうちひとつは、「人間の申し立てる倫理的な動機が

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最も古い道徳的な判断

われわれの身近で或る人間が行為をした場合、われわれは、実際どのようにするか?さしあたりわれわれは、われわれにとってその行為がどんな結果になるのかを注目する。― われわれはこの視点下においてのみその行為を見る。 曙光 102 序 本当は違うはずですが、人は外見や行為で人に判断されます。 真の意味での行為について判断されるのであればいいのですが、それを親なり何なりに肩代わりしてもらいつつ、外からの評価を得ようとする人もいます。 しかしながら自分自身は騙すことができません。 僕はゴルフをやりませんが、ゴルフが紳士のスポー

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気づかわしい

ある信仰を、風習であるという理由だけで受け入れる。―このことはしかし不誠実であり、卑怯であり、不精であるということを意味する!それでは、不誠実、卑怯、不精が倫理の前提であるというのか? 曙光 101 「気づかわしい」とは、事の成り行きなどが気にかかることであったり、「心配だ」「気がかりだ」というようなことを指しますが、12月25日は世間でもクリスマスだということで、「聖なる夜」が「性なる夜」的に気づかわしいということになりましょうか。稲中か何かでありましたね。 「ある信仰を、風習であるという理由だけで受け入れる」こ

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夢からさめて

生きているということは、明晰夢のようなおぼろげなものです。何度か書きましたが、僕は夢という言葉が苦手です。 イニシャルDの最終話で「プロジェクトDのイニシャル、Dreamに込めた俺の夢だから」と、高橋涼介が言った時には彼の評価が2段階位落ちました。 「高橋涼介が一番だ」、ということで頭文字DのゲームでもFC(RX-7)を使っていましたが、少しがっかりしました。D8になってからはもうゲームはやめたので、関係のないことです。 衝撃的な出来事 人生においては少なからず衝撃的な出来事というものがやってきます。 衝撃的な出来

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われわれのすべてが非理性的である点

われわれは相変わらず、誤りだと思っている判断や、もはや信じていない学説から結論を導き出す。 ― われわれの感情によって。 曙光 99 理性によって判断しているつもりでも100パーセント感情で決めていると言った人がいます。感情というものは厄介なものです。 感情主軸の話は話すだけ無駄なことが多いですが、感情が動かないようなものは気持ちに響かないため、経済社会においても感情に働きかけないものは全くに近いくらい売れません。 感情に振り回されているだけ 感情で動いている人はすごくエンジョイしているかのように見えますが、あちら

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