地域コミュニティの弱体化が原因となっているのか、日常を観光目線で非日常に変えることが至るところで起きていたりします。
地域インフラとして、そして自然な地域のコミュニティの繋がりの場として機能していた施設や店舗が、高齢化による利用者の利用頻度の低下や事業承継の難しさによって事業継続がままならなくなることがよくあります。
その結果、全く異なる資本による事業の引き継ぎが起こったり、新規店舗が現れたりはするものの、それらが軸にしているものは観光という目線であり、観光的解釈により地域の日常を非日常に変えてしまうことがよくあります。
そうなると地域インフラ、地域コミュニティの場として機能していた場所が、日常ではなくなり地元の人達の利用が無くなるのは目に見えています。
観光目線で変えられたそれらは、例え多少なりと元の日常に則したものであっても、地域外の空気が混じるため「異物の混入」による不快感が生じて避けるようになるか、排斥行動が始まるかのいずれかになります。
日常が観光に変わってしまった
そう言えば地元京都の話で幼少期から訪れていた銭湯になりますが、どうやら事業継続が難しくなったようで、他府県の他の事業者による引き継ぎのようなものがあったようです。
その後、僕の両親が地元を歩いていると、ビラを渡されたようでした。
そして「〇〇湯という銭湯はご存知ですか?」という一種の宣伝が始まったようでした。
父としては、「お前が生まれる前から知っとるわ」
というのが率直な感想だったようです。
京都人のそのあたりの厳しさを理解して欲しいといったところです。
その話を聞く少し前、そうした経緯は全く知らずにその銭湯に行きましたが、「うーん…」と思ってしまいました。
結局は「観光的な解釈で地元民から日常を奪った」というような感じに思えてしまったということになります。
もちろん経営難だったのだから、前の状態では破綻していたということになり、それを何とか改良して継続しようという意図はありがたいと思っています。
しかしながら、近年のスーパー銭湯等とは異なり、昭和の頃から続く銭湯は、地域インフラとして、地元のじいちゃんばあちゃんたちの地域コミュニティの場という部分もあったわけです。
そこに若者が観光目的でやってくるという前提のようなものを持ち出されると、じいちゃんばあちゃんは自分自身がその場所とそぐわないようなそんな気まずさが生まれ、去るしかなくなるような雰囲気が多少なりと出ていたわけです。
僕が「エセ標準語」と呼んでいる、謎の標準語を話す人達で溢れれば多少なりと違和感を感じます。
そうした人たちが混じっていてもいいですが、基本的にはコテコテの京都弁が中心となる場でないと違和感が募り、不快感が生じてきます。
それを確信したのは屋内の仕様の変更というような点だけではありません。
番台から聞こえる「おおきに。おやすみなさい」が無くなったという点です。
「ありがとうございました」でもマナー的には正解です。
しかしそれはキャラクターが入れ替え可能な観光の場では通用しても、地域の場、「日常」の中では深いところで通用しないのです。
言語的違和感に特に敏感な京都人は、そうした変化を深いところで拒絶します(けふは誰某がよき京入なる)。
単純には「快適さの基準」からはみ出してしまうということです。
普段寂しさということを感じることはあまりありませんが、その時ばかりは、少しばかり寂しい気持ちになりました。
地域インフラ的な「日常」の店
また、店舗にしても居抜き等々で新規出店ということは良いですが、収益率や何かしらのコンセプトに狂ったように執着しているような気がします。
まあ換言すれば「儲けたいだけ」と「モテたいだけ」という感じです。
何かしら新しい施設ができてテナントが入るにしても、日常を支えるインフラ的なものでもなければ、すごく人を感化するものでもないというような微妙なものがたくさん出店されていきます。
僕としては、街の中華料理屋や定食屋、床屋のような店舗が好きで、実はそうしたモデルのほうが爆発的な収益というものはないかもしれないものの、長期的な安定経営を叶えるものであると思っています。(「話題」は暇な人の消費対象)
そうした日常を支える店舗は地域インフラとしての機能があり、入れ替え可能な人物ではなく同一人物が安定してもたらしてくれる安心の空間となります。
それはサービスの提供といった事業がもたらす機能以外にも地域のコミュニティとしての強さや、精神面での安定をもたらすといった無形の機能があります。
そうしたものを避け、冷凍食品で揃えて酒で稼ぐ飲み屋等々収益性の高いものに手を出すか、微妙に高価な価格帯で「あってもいいけどなくてもいいもの」を取り扱うような店舗が出店されるケースが多いような気がします。
非日常にしてはパンチが弱く、日常にしてはインフラとして弱い、という印象です。
日常を離れた「流行」や「観光」といった目線のものは、歴史的・文化的深度が深く根を張っていない限り、一過性の流れに飲まれます。
しかしそれでも、何十年も通ってくれる地元民、特におじさんやおばさん、おじいさんおばあさんたちを無視している感が否めません。
F1F2層を念頭に置いていると言うか、どこかしら少なからず「女子ウケ」を狙っているのではないかと思っています。
そうした層は、一種の安定がなく広告や口コミに反応するので、一時的な盛り上がりは見せることがあります。
しかしながら、「安定していないからこそ広告や口コミに響き、訪れた」ということを忘れてはなりません。つまり、次はまた別のものに反応し、他のところに行ってしまうのです。
「日常的なもの」は、誰も驚かずモテに繋がることはないかもしれません。
しかしながら、長年の信頼の蓄積が一過性のモテなどとは比較にならないような喜びをもたらしてくれるでしょう。
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