氷見市の光禅寺と忍者ハットリくんロードを出て翌日向かったのが高岡市の藤子・F・不二雄ふるさとギャラリーです。
藤子不二雄A氏の次はもちろん藤子・F・不二雄氏。当然です。
ちなみに本日9月3日はドラえもんの誕生日。
藤子・F・不二雄ふるさとギャラリーは、高岡市美術館の2階にあります。
〒933-0056 富山県高岡市中川1丁目1-30 高岡市美術館
藤子・F・不二雄ふるさとギャラリー内は撮影禁止ですが、入り口のどこでもドアやドラえもん像などは撮影しても大丈夫です。
藤子・F・不二雄氏と少年時代の僕
「僕のもとに帰ってきたドラえもん」で少し触れていましたが、最も好きな漫画家を独走しているのが藤子・F・不二雄氏です。
僕が物心ついてから小学校卒業までの人格形成の大半は藤子不二雄両名によってもたらされており、とりわけ藤子・F・不二雄から受けた影響は計り知れないものとなっています。
「いじめられっ子で育ち、就職試験に落ちまくって漫画家」というのがまた沁みる感じですが、作品の節々に人間の弱さのみならず弱い人間の心が映し出されている感じが好きだったりします。
確か何かで読みましたが、大人目線で見る子どもの世界ではなく、子供目線で観る子どもの世界を作り出せるということで手塚治虫氏がジェラシーを感じたとかなんとか…
まあ確かに、劇場版ドラえもんなどにおいても、問題が起こった時に出てくるのは「大人が考える最適な解」ではなく、「小学生らしい相談」が繰り広げられていたりします。
だからこそ今なおドラえもんを観ると目が少年になるという現象が起こるのでしょう。
小学生の時にコロコロでの連載が終わり、小学校を卒業して中学生になってしばらくして藤子・F・不二雄氏は亡くなられました。
「これからドラえもんはどうなるんだ?」ということを当時同級生たちと騒いでいたのを覚えています。
声優さんたちが新しい方々になってからはどうしてもアニメ版には違和感があります。若い世代の人達からすれば懐古主義のように映るかもしれませんが、原作者が存命の頃と亡くなってから後ではそりゃあ違うは当然だろうと思います。
かつて日本テレビ版でドラえもんの解釈を変えられて激怒したり、中国語版で機械猫と表現されかけてブチギレたご本人がいないというところがポイントです。
大人が大人の解釈でドラえもんを扱うと間違った方向に行きやすいというのが、激怒された逸話からも垣間見れますし、ご存命の時はしっかりと修正がなされていたが今となってはそれは叶わないということになります。
変な方向にだけは行かないように願っています。
こんなところでも新寶島
さて、写真は手塚治虫記念館のものですが、まさか富山に来てまでまた新寶島(原作・構成:酒井七馬氏、作画:手塚治虫氏)の表示を見ることになろうとは…
きっと当時の衝撃は凄まじいものだったのでしょう。
展示物を観る限り、最初期はオリジナルの絵ですが、ある程度の時代まで手塚治虫調の雰囲気が強いという印象を受けました。
ギャラリー内には手塚治虫氏が少年藤子・F・不二雄氏に宛てたはがきも展示されています。
改めてハッとした出来事
後々使えるか使えないかはわからなくても、できる限りタネを集めておくというようなことが書いてありました。
ああそうだなぁということを感じて改めてハッとしました。
まあ数々の情報は無意識の中に眠っていたとしても、ちょうどいい時に表面に出てきてくれるかどうかはわかりませんからね。
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さて、有名キャラといえばドラえもんですが、やはり僕の中では同レベルで好きなキャラがいます。
それは21エモンの芋掘りロボットゴンスケです。
21エモン 芋掘りロボットゴンスケ
芋掘りというところがいいですね。
こんな顔は架空の顔だと思っていたら勤め人時代にゴンスケそっくりの上司に当たったことがあります。なので、そのとき「誰かモデルになった方がいるのではないか?」と思ったしだいです。
またモンガーの出身地がヘッコロダニ星雲タンバ星系ササヤマ星というところも意味深です。ゴンスケがモンガーのことを「宇宙ダヌキ」と呼ぶところが好きだったりします。
21エモンが漫画として描かれたのは1960年代末のようですが、アニメは90年代であり現役だったので、この作品にも思い入れがあります。考えてみると21エモンが出てから半世紀であり、この作品の舞台は2020年頃ということになっているので、何かしら感じるものがあります。
まんがライブラリーにて
藤子・F・不二雄ふるさとギャラリーでは、まんがライブラリーにて藤子・F・不二雄大全集が置いてあるので、好きなだけ藤子・F・不二雄作品を読むことができます。時間の関係上あまり読めませんでしたが、ひとまずジャングル黒べえだけ読破しておきました。
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その後結局「藤子・F・不二雄作品をもっと読みたい」と思ってしまい、漫画を爆買してしまいました。
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