
ヤーキーズ-ドッドソンの法則(Yerkes-Dodson’s law)とは、「覚醒レベル」と「学習のパフォーマンス」と関係において「逆U字型」の関係があり、「ある最適水準までは覚醒の増加とともにパフォーマンスは向上していくが、最適水準を超えると逆に低下していく」という法則である。
アメリカの心理学者であるヤーキーズ氏(Yerkes,Robert Mearns)とドッドソン氏(Dodson,John Dillingham)が行った「ネズミを使った学習実験」からこの法則が導き出された。
その後、ロフタス氏によって、動物だけでなく人間においても、「極度の高ストレス下にある場合や、目を覚ましたばかりの時のように極度の低ストレス下にある時の記憶や知覚の正確さは、適度なストレス下にある場合よりも劣る」といったように「情動的ストレスと知覚や記憶のパフォーマンスとの間にこの関係が成立する」と考えられるようになり、イースターブルック氏によれば、ヤーキーズ-ドッドソンの法則は、「ストレスの増加によって注意の幅が狭くなり、一部の特徴にだけ注意が向かう『動機づけによる集中化』によって生じる」と説明されている。
最適覚醒レベルの神経科学とパフォーマンスの変動力学
ヤーキーズ・ドットソンの法則は、パフォーマンスと生理的覚醒(ストレスやプレッシャー)の関係が線形ではなく、逆U字型のカーブを描くことを示した心理学の黄金律である。「適度な緊張感が最良の結果を生む」という経験則を科学的に裏付けたこの理論は、ストレスを単なる悪者として排除するのではなく、パフォーマンス向上のための必須エネルギーとして最適化すべき対象であると捉え直す視点を提供する。脳内の神経伝達物質のバランスから、タスクの性質に応じた戦略的リラックスまで、この法則が示唆する人間工学的な含意は現代においても極めて深い。
カテコールアミンの黄金比と前頭前野の機能
なぜ、パフォーマンスは逆U字を描くのか。現代の神経科学は、そのメカニズムを前頭前野(PFC)における神経修飾物質の作用として解明している。エイミー・アーンステン氏らの研究によれば、覚醒レベルが低い状態ではドーパミンやノルアドレナリンといったカテコールアミンの放出が少なく、ニューロンの発火は不活発で注意散漫となる。
逆に、極度のストレス下でこれらの物質が過剰に放出されると、非特異的な神経発火(ノイズ)が増大し、PFCの認知機能はシャットダウンしてしまう。最適な覚醒レベルにおいてのみ、特定の受容体(α2A受容体やD1受容体)が適度に刺激され、信号対雑音比(S/N比)が最大化される。つまり、脳が最もクリアに働く「ゾーン」とは、興奮と鎮静の化学物質が絶妙なバランスで拮抗している、神経生理学的なスイートスポットのことなのである。
タスク複雑性が決定する曲線のピーク位置
ロバート・ヤーキーズ氏とジョン・ドットソン氏の実験における最も重要な、しかもしばしば見落とされがちな発見は、「最適な覚醒レベルはタスクの難易度によって異なる」という点である。単純な作業(重いものを運ぶ、全力で走るなど)においては、高い覚醒レベル(強い興奮)がプラスに働く。ここでは「火事場の馬鹿力」が有効であり、思考よりも反射や筋出力が優先されるからである。
しかし、複雑な作業(数学の問題を解く、繊細な外科手術を行うなど)においては、最適覚醒レベルは低くなる。複雑な処理にはワーキングメモリの容量が必要だが、高ストレス下ではコルチゾールなどの影響でワーキングメモリのリソースが奪われてしまうからである。したがって、クリエイティブな仕事や難解な意思決定を行う際には、カフェインや締め切り効果で無理にテンションを上げるよりも、静かな環境でリラックスすることの方が、脳のスペックを正しく引き出す戦略となる。
熟達化による「余裕」の生成と曲線の右方シフト
この法則は静的なものではなく、学習と経験によって動的に変化する。あるタスクに対する熟達度が上がると、その処理は自動化され、意識的な制御リソース(ワーキングメモリ)を消費しなくなる。
初心者が運転中に話しかけられるとパニックになる(低い覚醒レベルしか許容できない)のに対し、熟練ドライバーはラジオを聞きながらでも安全に運転できる。これは、熟達化によってタスクの主観的な難易度が低下し、逆U字曲線のピークが右側(高覚醒側)へシフトしたことを意味する。プロのアスリートが大観衆のプレッシャー(高覚醒)の中でも最高の結果を出せるのは、彼らが反復練習を通じて技術を自動化し、高ストレス環境下でもパフォーマンスが崩れない脳構造を作り上げているからである。トレーニングの目的とは、単にスキルを磨くことだけでなく、この「最適覚醒ゾーン」を広げることにもある。
脅威から挑戦へ:認知的評価によるストレス変調
ストレスがパフォーマンスを低下させるか向上させるかは、物理的なストレッサーの強度だけでなく、それを個人がどう解釈するかという「認知的評価」に依存する。ジェレミー・ジェイミソン氏らの研究によれば、動悸や発汗といった身体反応を「不安(脅威)」と捉えるとパフォーマンスは低下するが、「準備完了の合図(挑戦)」と捉え直す(リアプレイザル)ことで、逆U字の頂点を維持、あるいは高めることができる。
これは「興奮の再解釈」と呼ばれる手法であり、不安を無理に落ち着けようとするよりも、「ワクワクしてきた」と言い換える方が有効であるとされる。ヤーキーズ・ドットソンの法則は、我々が自身の身体反応をモニターし、タスクの性質に合わせて「心のギア」を意図的にシフトさせるための羅針盤となる。
ヤーキーズドッドソンの法則(Yerkes Dodson’s law)
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