煩いの根本原因の一つは、「反応」にあります。
社会においても反応する側と反応させる側で、立ち位置が全く異なり、自由意志で選んでいるようで誰かの意図に反応しているにすぎないというのが本当のところです。
反応するという事自体は本来無属性ですが、その奥に誰かの恣意的な意図が含まれている場合は、意志を操られているとすら考えることができます。つまりそれは一種の洗脳です。
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強烈なリーダーシップ
かつては強烈なリーダーシップを持った人がそれを実現していましたが、現代では「合理化」の考え方が進み、猫も杓子もマーケットインの手法をもてはやしています。
特に新しい付加価値をもたらすこと無く、既にある情報の中からより精度の高い何かを抽出していく、そんな感じになっています。
有名な観光地の写真を度々見せられても仕方ありませんし、既に知っているような、既にネット上に溢れているような情報をまとめただけのネット記事も面白くありません。
「反応させる」というコントロールも必要ありませんし、反応すること自体も無属性ですが、なにかに触れるのであればより良きものを選択するに越したことはありません。
なるべくたくさんの一流に触れる
最近手塚治虫氏の遺作、ルードウィヒ・Bを読みました。連載途中に絶筆となった未完の作品ですが、やはり彼くらいの力量のものに触れないと、面白いと感じることは無くなってしまいました。
「なるべくたくさんの一流に触れなさい」
十代の時にそうした手塚治虫氏の言葉に感銘を受け、それからというもの、「ならば一流である彼の作品を読み込もう」と思ったことを覚えています。
ルードウィヒ・Bにより気づく自分の疲れ
ルードウィヒ・Bを読んでいると、自分の疲れに気付きました。
それは普段の生活の中で、どうしても触れてしまう情報の精度の低さへの辟易と疲弊、そして昇華すべき抑圧を無視していたことです。
蒲郡風太郎の最期
そう言えば、少し前になりますが、ジョージ秋山氏の「銭ゲバ」を読みました。
ラストのオチがすごく印象的でした。
そして今では忘れているような感じがしても、昔の自分も蒲郡風太郎の最期のような感じだったなぁということを思い出しました。
そんな中、ふと社会の方に目を向けてみると、昔の僕も己の心を守ることに必死だったんだなぁということを思い出します。
今では何の問題もないのですが、他人に提示されるものに対しての反応、そして反応の対象について振り回されていたという感じです。
最大のがっかりとはまた異なりますが、一種の絶望の先にあったのは、己の意識の内側にその問題の種があることに気付いたことです。
反応することによる辟易がなくなる
反応する側と反応をさせる側の違いのうち、最大の違いは反応することによる辟易がなくなることです。いわば他人の意志によって振り回されているという感覚が少なくなるという感じです。
ただ、反応させる側であっても「反応する」ということの呪縛から逃れられているわけではありません。
それは銭ゲバで描写されています。
他人の意識の中で生きること
誰かの提案に反応するということを繰り返していると、その誰かを含めた他人の意識の中で生きることになります。
「モテないが正しい」ということの本質の一つはそこにあります。
もし本当に100%モテを意識せずに生きられたのなら、どれほど気楽でしょうか?
理不尽な要求は全て排除することができますし、気を遣うこともありません。
体力がなくなってきている企業においても、おそらくモテを意識しているはずです。
統計をとって、みんなのニーズに合ったものを作ろうというようなマーケットインのやり方です。
それはそれで、ある種のきっかけ、そして最適化のためには良いですが、それに依存しすぎな傾向があるように思います。
相手の熱意よりも強烈な気迫を持ち逆に飲み込む
「熱意に負けている場合ではない」
そんなことを思う時があります。
所詮、一過性の感情にしか過ぎないものにまともに付き合うとロクなことはありません。
そういうわけで、反応する側ではなく、反応させる側になったのであれば、熱意で押してくる人より強烈な気迫で、逆に相手を飲み込むのが妥当です。
可能であれば、そのエネルギーすら吸収してしまうくらいが理想的です。
「世話」のエネルギー
僕が少しばかり溜め込んでいたのは、そうした「世話」のエネルギーです。
誰かを保護することと言うより、その誰かの内側にある意識の塊を破壊することが、自分に求められているようなことなのだということです。
端的にはギャンブラーにお金を貸してあげるのではなく、ギャンブル癖をそのものを焼き滅ぼすということです。
時に人格を崩壊させるくらいのほうが良いでしょう。
依存気質のある人に対して直接的に支援するよりも、そのウジウジ癖と縋り根性を破壊してあげるほうが良いという感じです。
誰かの恣意的な意図によって反応の対象を設定されている人の意識にある塊を燃やし尽くすということにはなりますが、これには言語的説得よりも無意識の力の方が理に適っています。
本来は本人が汚染に気づくこと、つまり洗脳に気づくことが理想的ですが、その人も周りもおそらく同じような人たちなので、それが叶う可能性は極めて低いですからね。
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