ヨーロッパのユダヤ人の運命の決定は、次の世紀がわれわれを招待してくれる演劇のひとつである。 曙光 205 序
一応イスラエルはユダヤ人の国です。で、エルサレムはユダヤ教徒区画とキリスト教徒とイスラム教徒区画があったりします。
日本国内ではキリスト教以外のアブラハム系の宗派について、ほとんど認識がありません。だからその共通点も相違点もあまりわからないまま、ニュースなどで雰囲気だけ伝えられ、感情的に嫌だと思っているというのが本当のところでしょう。
しかしながら、国際的な敵対などを考えたときでも、常に国家という単位ではなく市民レベルで、個人レベルで考えたときには、忌み嫌い会う理由がないように、それらの主義においても、その一つの属性によって個人を忌み嫌う理由もないのです。
僕はイスラエルやパレスチナを含め、ちょろちょろ海外に冒険に行きましたが、その中の一番の収穫は、市民レベルと市民レベルでは、国家や宗教という枠組みはなくなるという感覚です。
常にそうした無駄な争いごとの原因は、組織としての大きな枠組みのトップの人達の感情に巻き込まれているというだけで、個人レベルでは、相手と戦う必要などどこにもないのです。
トーラー(モーセの五書)
ユダヤ人というと、ユダヤ教徒です。でも日本ではユダヤ教というものがどういうものかいまいち分かっている人は少ないと思います。
簡単に言うと、旧約聖書のみを聖典とするという感じであり、旧約聖書という表現自体が新約聖書との相対的尺度になるため、ユダヤ人からすれば、いわゆる旧約聖書だけが「聖書」であり「旧」という概念はありません。
そういうわけなので、トーラーと呼ばれるモーセの五書にある「モーセの十戒」などがキーポイントとなっており、罪の概念のもと、契約を果たしたものだけが神に選ばれるという概念を持っています。
でもそのモーセの十戒の内容がどんなものかというと、そんなに変なものはどこにもないのです。特に行動規範的なもので言えば「人を殺してはいけません」「嘘をついてはいけません」「人のものを盗んではいけません」といったように、現代の倫理観と特に内容は変わりません。
そういうことを思っている人が目の前にいたとして、何か問題はあるでしょうか?
原理主義的な解釈
そこでおかしくなるのは、原理主義的な歪んだ解釈です。
「私以外に神があってはなならない」
という戒律を破る人がいたとして、「戒律を守れないということは人ではない」ということになって、「神を穢すものとして駆逐せよ」なんてなウルトラC解釈が行わることがあります。
でもそれはそうした思考自体がおかしいだけです。
「戒律を守ってないけど、人だからなぁ…説得はしてみるか」と思っている人もいるはずです。
「他人のことはどうでもいいんだ、これは自分の問題なんだ」と思っている人もいるはずです。
だから、そうした宗教そのものが原因になっているわけではありません。
「そういう思想を持っているなら、私は殺されるかもしれない」と恐怖を覚える人もいるかもしれませんが、属性から勝手に推論するのではなく、その人自体を見ればいいのです。
その人自体を見て判断する
日本の坊主の中にも、料金システムを導入して稼いだお金で、祇園のお姉さんに鼻の下を伸ばしに行く人もいます。だから社会的な属性や傍目が坊主だからと言って煩悩を断ち切り、悟っているわけではないのです。
また逆にそうした外部的な印象がなくても、社会的証明がなくても、心穏やかに欲や怒りに塗れること無く過ごしている人たちもいます。
だから、そうした「属性」というデータ的なものを基準とせず、その人自身を見てください。
心が静まっているかというところを「観る」と騙されることはなくなります。
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以前中国に留学していた人から聞いた話があります。
南京の大学に留学していたそうですが、中国人のグループに絡まれたそうです。
「お前たち日本人はこの南京で何をしたのか覚えているのか?よくこの場所に来れたな」
という感じのことを言われ、胸ぐらをつかまれ、集団暴行に遭いかけたそうです。
その時、その様子を見た別の中国人のグループがやってきて、
「この人と歴史は関係がない。言いがかりはいい加減によせ」
と制止してくれたそうです。
自分に言いがかりをつけてきたのも中国人なら、助けてくれたのも中国人でした。
イスラエルの民族について 曙光 205
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