われわれは人生に安心を望む

思索家のように、通常は思想と感情との大きな流れの中で生き、夜の夢すらもこの流れを下って行くのなら、われわれは人生に安心と静けさとを望んでいるのである。― 他の人々は、彼らが省察に身を任せるとき、まさに人生から離れて休息したいと思っているのに。 曙光 572

安心と安全こそが、人生の最大のテーマであったりします。安心とはもちろん不安がない状態のことを意味します。

普通はそれを思考上で解決しようとしますが、思考上で考える安心や安全は、本当の意味での安心や安全を叶えてはくれません。

なぜでしょうか?

頭の中でいかに考えようが、体は別の反応をしているからです。

「安心である」「安全である」と自己説得を行っても、実際の体の反応としては緊張、不快感などの反応を示したりします。

「安心の自己説得」と実際の体の反応

「○○だから自分は大丈夫だ」

「あれをやったのだから、もう安心なはずだ」

と繰り返し自己説得をしても、体は冷えたりしていないでしょうか?

逆に緊張で体が熱くなったりしないでしょうか?

何かしらの理由をつけて自己説得を行ったところで、それとは無関係に体は別の反応をします。

つまり思考上であれこれ自分を納得させようとしていても体は緊張しているという感じです。

これは、意識の上では「大丈夫だ」と自己説得をしていても、無意識は「大丈夫ではないときの反応」をしているからです。

といっても四六時中緊張しているわけではありません。面接で鯱張ることはあっても、布団にこもっている時などは比較的安心や安全を体で感じでいるはずです。

といっても、無意識でどこかしら緊張している時はあります。

「明日起きられなかったらどうしよう」とか「この家は防犯が完璧じゃないから」とか「寝る前に明日する予定のやつを少しやっておいたほうがいいじゃないか?」とか、そういったものです。

リラックスを思い出そう

では、瞬間的なリラックスとして寒い冬に家に帰ってきて、なかなか質の良い入浴剤を入れた程よい温度のお風呂に使った瞬間のことを思い出してみましょう。

「うわ~沁みる~」

という感じです。その体がほぐれた瞬間を思い出してください。ビジュアルだけでなく、体の感覚も一緒に思い出してください。

縮こまっていた皮膚の毛細血管が広がり、緊張していた筋肉がほぐれていきます。

深呼吸して

「ふぅ」

と一息つくと、非常に心地よい感覚でいっぱいになります。

その瞬間に限っては、かなりの安心と安全を感じているはずです。

その時に限っては自己説得の上の納得という感じの構造ではなく、ただ単に身体の都合でリラックスしていますが、ひとまず心身ともにリラックスしているはずです。

では、ずっと体がそういったリラックスのような「大丈夫な時の反応」をしていたらどうでしょうか?

ずっと幸せでいられるはずです。

思考上で何が起ころうが、目の前の現象がどんなものであろうが、そうしたものを幻影だとしてその場で流し、ずっと体がそうした体感の状態にあればどうなるでしょうか?

と、それはハードルが高いかもしれませんが、もし緊張してしまった場合は、緊張していることに気付き、目を閉じてお風呂を思い出してください。

「リラックスしよう」と思考上でやりくりするよりも、体感記憶を呼び起こしたほうが効果的だったりします。

「どこかしら緊張しているなぁ」と気付いた時は、お風呂に浸かっている時の自分の体感を思い出してみてください。

われわれは人生に安心を望む 曙光 572


安心とリラックスと笑いは密接につながっています。リラックスするための筋弛緩法というものもありますし、笑いの要素の一つとして緊張の緩和理論というものもあります。

安心し緊張が緩んでいる時は文字通り安穏の状態にあり、イコールで幸せな状態にあるということになります。緊張と弛緩という概念では、緊張と「ゆるみ」が相対的に対比された上で捉えられていますが、あえて「ずっと緩みっぱなしならどうなのか?」ということについて考えてみましょう。

緊張と弛緩から観る「今」のあり方

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ