聖書の中には、最も野心的で最も厚顔な魂が備わり、また、抜け目がないと同様に迷信的でもある頭の持主である人の歴史、使徒パウロの歴史もやはり書かれているということ、― 若干の学者は別としても、誰がこれを知っているだろうか?
―
パウロの書面を「精霊」の啓示として読むのでなく、われわれのあらゆる個人的な危機を考えないで、誠実な、そして自由な自分の精神で読んでいたなら、真に読んでいたなら、― 千五百年の間そのような読者は誰ひとりいなかった―、キリスト教もまたとっくの昔に終わっていたことだろう。 曙光 68 一部抜粋
あらゆる書物に共通していますが、それが本物か偽物かというところ、そして信憑性について客観的な証明材料を欲し、史実的な紐解きや肩書なんかを採用することは最も避けるべきことです。
ニーチェによると「パウロの書面を『精霊』の啓示として読むのでなく、われわれのあらゆる個人的な危機を考えないで、誠実な、そして自由な自分の精神で真に読んでいたなら、キリスト教もまたとっくの昔に終わっていたことだろう」という感じのようですが、文字に起こされていたり、やたらと自信満々で語られているからということで、疑うことなく字義的に捉えてしまうということが長い間続いていたようです。
発言者が誰であっても変わらないもの
何度も書いていますが、発言者が誰であるかによって、その言葉の持つ意味は変わる場合と変わらない場合があります。
発言者の属性を含めた状況によって意味が変わるものと、誰が発しても変わらないものがあるのです。
「視覚障害がない場合、目を開ければ何かが見える」ということを、キリストが言えば正しく、幼稚園児が言えば正しくないということはありえません。
そして、イエス・キリストが語ったかどうかというところも、所詮その人の解釈であり、その語った内容に力を与えるのはその人の意識だったりもします。
しかし、本来真理や理法などと言われるものは、そうした語り手の属性によって揺るがないからこそ真理や理法と呼ぶにふさわしいはずです。
たった一人の迷信的な頭の持ち主による盲信、妄想、妄言を根拠に「信仰」するのではなく、そうしたものに感化されずに自らをよりどころとして紐解く方が理に適っています。
権威ある者のように
「あの人が言うなら裏付けもありそうで、なんだか正しそうだ」
そんな感じで判断すると、とんでもない誤謬にたどり着くことがあります。
特に、雰囲気重視の場合はそれが顕著です。
「何となく自信がありそうだから」
というようなもので詐欺師たちは人を騙しています。
そう考えると新約聖書でも少し怪しい表現があります。
「それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」
「権威ある者のように」というところが感化された臭い感じがしますね。
普通の感覚からすれば、「権威ある者のように教えたから何?」という感じがするはずです。
一応新約聖書はイエスが書いたのではなく、イエスを見ていた人たちが書いたものですからなんとも言えません。
イエスはただ単に素だったのだと思いますが、周りの人達はそうでもないような感じがすると言うだけです。
最初のキリスト教徒 曙光 68
最終更新日: