宗教の起源について

事物について自分自身の意見をどうして啓示として感じることができるのか?これは宗教の発生の問題である。 曙光 62 序

宗教の起源は、埋葬やシンボルの登場、自然信仰、岩石信仰(巨岩信仰)などなどといったところですが、そうした原始的なものから、文化社会的な都合で妄想されてきたものがほとんどです。

理性では理解できないモノへの畏怖や未知のものへの恐怖を筆頭に、何かしらの感情、元を辿れば生存本能的な恐怖心が発端となり、妄想でそれを埋めるという事がなされてきたという感じでしょう。

本能的な恐怖心は残りつつ知能が発達したために、過去や未来についても想像することができるようになったことがその根本原因ではないでしょうか。未来を予測できるからこそ農耕などが発達して少しずつ飢餓を克服することはできましたが、それと引き換えに死への恐怖や天災など自然への恐怖も生まれてきたという感じです。

今まで何度かはお伝えしていますが、僕は何かの宗教に属していませんし、もちろん宗教ではないという宗教まがいの団体にも属していません。

僕の中の宗教の定義は結構単純明快で、「アイツが理解不能な領域について懐疑を持ちながらも、信仰することで抵抗をなくし、何か自分の知りえない領域、上位の存在にお願いして、現世もしくは来世で良いことを起こしてもらおうとするもの」という感じです。

宇宙人に対するものも同じようなものです。

かといって無神論者の唯物論者などのようでもありません。もちろん「オレはオレ教」みたいなズレている人とも違います。

本来仏教は宗教ではない

日本の鎌倉新仏教はもちろん宗教的要素が強いですが、もともと仏教は宗教ではありません。それは仏教を知れば自ずとわかることです。

ただ本質は言語を超えています。しかし、言語などによる伝達以外に方法がないので、崖を登りきる前の梯子、川を渡りきるまでの筏として、パーリ語経典を読んでみてもよいでしょう。でもそれはただのツールであり、そこに本質があるわけではありません。

何か宗派的な争いがありますが、どうしてそんなことをするのか意味がよくわかりません。

そこには、「社会的に認められよう」というような執着する垣間見れます。

外部の何かを条件にすること自体がズレているのに、そこに執着し、苦しみを増やしているだけにしか見えません。

ということは偽物とは言いませんが、生悟りです。

「みんなを救ったほうがいいよね?」

というのはいいですが、それが争い、苦しみ、混乱になるのなら何をしているのかよくわかりません。

相対的尺度、民主主義、比較

世界を認識しているのは自分だけです。

「みんな」が変わったとしても、「みんなを救えた」としても、その光景を受け取るのは自分だけ。

その中で、「みんな」か「自分だけ」かという相対的な尺度で考えているのは誰でしょうか?

アイツですね。

比較すれば、「みんなの方がいいだろう」ということになりますが、それを根拠に善し悪しを決めるのはナンセンスです。なぜか、アイツお得意の汎用性のある相対的尺度、民主主義や比較というものが混ざっています。

まあ本人ではなく、ある種他人である「みんな側」にいる人達にとっては、「そのほうが自分にとって都合がいい」という判断が出てきます。

「みんな」の方が支持される

そうした都合だけで、「みんな」か「自分だけ」かどちらが優れているかというところを判断に持ち込むと、ある種他人側のである「みんな側」に属している人たちは「自分にとって都合にいい」ということになります。

それは論理構造上の問題で、雰囲気で見ると「みんな」の方が支持されるのは普通です。

でも、ナンセンスです。

で、仏教という言葉を使うと、仏教という概念に縛られます。それこそが本質からズレていく原因になります。

言葉はタダの梯子。

その先は言語を超えている故に「何も語られていない」という人すら出てくるのです。

宗教の起源について  曙光 62

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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