二人のドイツ人

精神に関してでなく、魂に関して、カントとショーペンハウアーとを、プラトンや、スピノザや、パスカルや、ルソーや、ゲーテなどと比較するなら、上述の二人の思想家は不利な立場にある。彼らの思想は情熱的な魂の歴史を形成していない。そこでは、物語も、危機も、破局も、臨終も、何ら推測されない。彼らの思索は同時にひとつの魂の無意識的な伝記であるのではなく、カントの場合にはひとつの頭脳の歴史であり、ショーペンハウアーの場合には、ひとつの性格の(「不変なものの」)記述と反映であり、「鏡」そのものの、すなわち優れた知性の喜びである。 曙光 481 前半

ドイツ人ドイツ人と言われても、ドイツ人について何を書きましょうか。ということで、またもや混乱中です。頭の熱っぽさは取れてきましたが、混乱してしまいます。

カント(Immanuel Kant)とショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)はそれぞれ一通りは読んだものの、個人的にはこの両名をその他の哲学者などと比較するほどのマニアではありません。

余談にはなりますが、いつも「二人の~」という文字を見るたびに「勇者降臨」の「二人の勇者」を思い出してしまいます。ハイランダーとベルセルクですね。前にあった「二人の友人」の時も思い出しました。一応、それぞれ王狼英雄・ノーブルクーフーリン、破龍皇帝・グランドジークフリートにはしています。後から後から究極進化のパターンを増やすというのはどうかと思います。

さて、二人のドイツ人です。

ドイツ人と言っても旅先でたまに会うくらいで、ほとんど縁も所縁もありません。

やはり書くことがありません。

「純粋理性批判」、「実践理性批判」、「判断力批判」という三大批判書で有名なイマヌエル・カントや、「意志と表象としての世界」で有名なアルトゥール・ショーペンハウアーについて書いてもいいところですが、もう著書を読んでかなりの期間が経っているので、ひとまずはやめておきましょう。

二人のドイツ人 曙光 481

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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