実見は歴史家に逆らう

人間が子宮から出て来ることは、全く証明済みの事柄である。それにもかかわらず、その母親と並んで立つ成長した子供たちは、この想定を全く不合理なものに思わせる。この想定には、それと逆らうような実見がある。 曙光 340

我が家にはサンセベリアくんが今でも同居しています。このサンセベリアくんは、親子でメキメキと成長しています。母というか父というかわかりませんが、脇からひょいと子供サンセベリアが出てきました。

とは言うものの、根もとはつながっています。しかし根を分離させたとしても、お互いに独立して生きていくでしょう。

この場合は、親子関係と言えば親子関係ですが、今のところ一体化しています。ただ単に最初から並んで生えているサンセベリアを見たならば、一応の若さなどの違いはあるものの、親子ではない可能性ももちろん想像できるということになります。

しかし、脇から生えてきたところを毎日観察していました。そこで、根もともつながっていることを確認したりすると、確実に親子だということがわかります。しかし、見方によれば、親のサンセベリアです。親サンセベリアのただの枝分かれとも取れます。しかしながら分離させても独立して生きていく上に、子供の方は葉が若いので、再生寿命のようなものも、親サンセベリアよりは残が多いでしょう。

「挿し木」で増えてしまう植物

植物は挿し木などで増えるタイプのものがあります。

枝を土などに挿すと、根が出て葉が出て、という具合に、枝からまた一本の木になっていきます。

「種から育つ」というパターンは他の卵生と同じような理屈ですが、枝からでも育っていくというところが、胎生の人間ではありえません。他の卵生でもありえません。

そうなると感じている主体のような心はどんなところにあるのでしょう。枝を折れば、その枝は独立して生きようという意志を持ちながら、外界の環境を感じて、それに適応しようとしていきます。ある種折れた時点から、心も分離するということになるのでしょうか。理屈で言えばそうなります。

ソメイヨシノなどはそのような手法で各地に根付かせたという話があります。それでも各地でそれぞれに立派に適応しながら毎年花を咲かせています。最初は人の手で、ということになりますが、人が枝を折った時点で、新しい命が生まれているようなものです。不思議といえば不思議です。

植物たちが教えてくれたこと

生命の起源が同一なら

動物にしろ植物にしろ、種の起源が何なのか、どういうことなのかはわかりませんが、今のところ目の前に現れている命があるとすれば、起源から一度も死んでいない、その起源の頃からの情報を引き継いでいるという事実的なものがあります。

仮にそれら生命の起源が同一の生命が発端であれば、全ての生き物が親戚ということになります。遠縁なだけで、隣の人どころか、身の回りの動植物や果ては細菌などに至るまで、全ての生命が親戚かもしれません。

そう考えると、「身内びいき」の意味も、よくわからないものになります。

遺伝子的な意味で身内びいきするとすれば、ある種すごく狭い範囲での話になり、どちらかと言うと、遺伝子的な関係性よりも、意識の上での経験や判断という情報を根拠に「身内だと判断している」というようなことになりましょう。

うちの家族が、うちの会社が、うちの国家が、果ては人類が、という狭い範囲を、勝手に定めたのはだれでしょうか。

生命の起源がどういう感じだったのかは、いくら考えても想像の域を出ませんが、「あの時からある意味で一回も死んでないぞ」ということであれば、ほんとうに様々な生命が様々な方法論で今でも生きているという驚くべき事実です。

空想による発火

ただ生きているだけ

といっても、ただ生きているだけです。

それを素晴らしいこととするのも、苦しいことだとするのも、意識の上での判断です。

植物を観ると、そういった思考を持たずに、「ただ生きている」、という感じがしますね。

純粋な知性

それでもその奥には「死んではいけない」とか「自分が無理なら種を落とすとか、他の方で何とか種を残そうね」という意志が組み込まれています。

人間はそんな勝手に組み込まれている意志を何とか文化的に解釈しようとします。しかしその実は、深いところでは納得できないものであり、人に説明しようにも、説明になっていないような雰囲気だけの美化論になっています。

「人生って素晴らしい」

と見聞きすれば

「そうだなぁ」

とか

「どこが?」

とかいう感想がやってきます。

しかし、人生のどこがどういうふうに素晴らしいと説明しても、その説明の根拠はどこにもありません。

「いろいろな楽しい経験ができるから素晴らしい」

と言っても、「楽しい」も「経験」も、それぞれがどう素晴らしいのか、説明ができません。してもさらに分解された要素についての説明が必要になります。そして、それには終わりがありません。

そういうわけで、説明というものはできません。体感くらいしかできないものです。しかしながら他人の体感は、自分では言葉を追うくらいしかできません。そして人がそれを話しあった時、同じような体感を経験していても、それぞれが同一のものという確率は、理屈上ゼロでしょう。

と言った具合に、ただの雰囲気だけになります。言語など雰囲気をどうやって言語的に伝えるか、印象をどのように近いものとして再現してもらうかくらいが限界です。

そういう意味で、「人生って素晴らしい」と、あまり言わないほうがいいかもしれません。言ってもいいですが、説明は苦しいものになるので、深くは考えてはいけません。

「説明しろ」

と僕のような中学生に質問される前に、口を閉じることです。

限界で、「人生って素晴らしい」と、今私は感じた、くらいの説明です。

一秒先には同じ体感や感想は無いかもしれません。

本質的には、そう感じる可能性が常に揺らいでいますが、それも束の間の感想だということです。本質は一切行苦です。全て体や意識にやらされているだけのことですから、何かを達成しても、それが素晴らしいと判断しているのはその手前に「そのほうが都合がいい」と判断したからであり、根本にそういったアイツの要求があるからです。

素晴らしい、素晴らしくないという二元論はアイツの仕業です。

常にその瞬間の、ある状態にしか過ぎません。

実見は歴史家に逆らう 曙光 340

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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