衝動の激しさを押さえるのに、本質的に異なった六つの方法より以上は見つからない。
(略)
機会を避けること、規則を衝動に植えこむこと、衝動に対する飽満と嫌悪を生み出すこと。苦悩を与える思想の連想を完成すること。次に力の転位。最後に全身的な衰弱と虚脱。― これが六つの方法である。 曙光 109 抜粋
ニーチェには残念です。衝動を解消するのには、この引用の方法論(①機会を避ける、②規則を衝動に植えこむ、③衝動に対する飽満と嫌悪を生み出す、④苦悩を与える思想の連想を完成する、⑤力の転位、⑥全身的な衰弱と虚脱)以外にもたくさんあります。これら六つ合わせてもたどり着けない地点もありますが、彼はこの時まだまだ、アイツの中にいたので、大目に見ておきましょう。
衝動の混同
さて、衝動にはある衝動に関連した他の衝動によって、駆り立てられているという類のものがあります。
以前少し触れましたが、たとえば、のどが渇いているという乾きの衝動と空腹は混同されやすいという特性があります。ある衝動を他の衝動と錯覚させ、混同して勘違いさせるというアイツの特性です。
「運命の出会い」という何か直感的なものかのように見せかけて、ただの「ムラムラ」だったというのはよくある話です。
ムラムラでなくとも、たまたまそういう話題が近頃よく起こっていて、その話題に合致したような経験だからこそ運命的であると思い込むというやり口です。
運命的とは言いますが、無意識的に、また現象的に勝手にオートマで起こっていることです。他のものはなにか自力でやったというような感覚が拭えませんが、運命的なあれこれも、自分でそのプロセスをよくよく観察していたような出来事も、本来的に、また、本質的に同じです。
6つの方法のうち前半の3つ、つまり、機会を避けること、規則を衝動に植えこむこと、衝動に対する飽満と嫌悪を生み出すこと、は義務教育でよく行われていることです。こちらに主軸をおいて、ポスターなどを作って頑張っていますが、これは内発的な動機によってこの方法論が活きてくるということを知っておいたほうがいいでしょう。
「機会を避ける」というのは、なかなか面白い方法論です。うまくいく場合と、うまくいかない場合があります。今回はこちらについて触れていきましょう。
機会を避ける
たまに本質をわかっていない人が、少しずつ減らしていけば最終的にはなくなるのではないか、ということを考えます。わかりやすい例で言えば。毎日たばこを20本吸っている人が、毎日1本ずつ数を減らしていけば20日でやめることができるというものです。残念ですが、99%そんなことはできません。
毎日10回トイレにいく人が、毎日1回ずつ行く回数を減らしていけば、最終的にはトイレに行かなくなるのでしょうか。もちろん答えはノーです。
生理的な必須事項とはわけが違うと考えて反論してくるわけですが、本質的にどういうことかというのは、そういうことではありません。「怒りによる衝動」と「欲による衝動」というものは少し具合が異なるという点です。
「怒りによる衝動」と「欲による衝動」
元は欲求なので、同じようなものですが、排泄等は、排泄したいという何かを排除したいというタイプの衝動です。非喫煙者から見ると、喫煙に関しては「吸いたい」という「欲」の方かと思っていますが、ほとんど違います。タイプとしては怒りの方です。
ニコチン依存により、ニコチンが欠乏した時に起こる「そわそわした状態」というのを排除したいという「怒り」の衝動のほうが、性質的には合っているでしょう。
ではギャンブル依存症のような場合はどうでしょうか。これも「楽しみに行っている」と、「欲」のように思いますが、「独りや気の合わない家族と一緒にいる時間」が苦痛で、そういう面白くなく、イライラする状況を「排除したい」という衝動のほうが強いでしょう。
この手のものは、いくら説き伏せても、「衝動」には勝てません。おしっこを我慢できないように、我慢はできません。
行動としての制限を提案しても、ほとんど徒労に終わります。つまりは、機会を減らしても、我慢した分だけ、後に押さえつけた感情の暴走が始まる可能性が高いということです。
欲や酔い
一方で欲はどうなのか、という点ですが、「つまらない自分を変えたい」というタイプのものは怒りの属性が強いので、厳しいでしょう。浪費するような人も、欲が強いというよりも、刺激がない状態になると「憂鬱」になることを恐れて、衝動買いしてしまいます。
すごい人だと思われたいという虚栄心も「すごくない自分」というものを目の当たりにしたくない、という一種の現状排除という属性を持っています。
「しばらく会わない」場合に起こる恋愛の酔い醒め
さて、欲に関してですが、ある本に、若い二人の結婚を止めたい場合の対処法というような項目がありました。「しばらく会わない」というものです。
説得の理由としては、「これから一生一緒にいるつもりなら半年くらい離れていても構わないだろう」というものです。
特に「永遠を誓っているのなら、特に問題ないね?心が変わるなんて言わせないよ」というものです。
二人は永遠の愛を誓っている手前、「まあそれくらいなら」と思ってしまいます。
しかしながら、長い間相手に接しないと、恋愛の酔いは醒めます。二人の愛は永遠だと目をうるうるしている方がいれば、上述の説得文句を受け容れて、試しに二ヶ月くらい一切連絡を取らないということをしてみてください。永遠なのだから変わらないはずです。
欲の衝動の低減を確認
この時に欲の衝動が日に日に低減していくことがわかります。一方で、つまらない自分を支えてくれていた、ある種の怒り解消としての機能面での衝動の強さが残っている場合は効果の低減の進行は遅いかもしれません。
欲の衝動の低下をはっきり確認するためには、相手と会わないことと、もう一つ、相手のことをあまり考える時間がないほど、仕事などが充実している、という環境があればすぐに確認できます。
つまらない人生を排除したかったという怒りの衝動が消え、ただ、欲だけが残った時に、そのチンケさにあっと驚くかもしれません。
そういうわけで、自尊心が傷ついたような人をパートナーにしてはいけません。怒りで、自分にすがってきているのだから、ロクなことはありません。
そんな人しか周りにいないなら、犀の角のようにただ独り歩むことです。せめて依存すること無く、今は弱っていても、いまは少しもたれかかってきていても、自らの足で歩もうとしている人しか関わってはいけません。
自制と節制とその究極の動機 曙光 109
最終更新日:
>衝動を解消するのには、この引用の方法論(①機会を避ける、②規則を衝動に植えこむ、③衝動に対する飽満と嫌悪を生み出す、④苦悩を与える思想の連想を完成する、⑤力の転位、⑥全身的な衰弱と虚脱)以外にもたくさんあります。これら六つ合わせてもたどり着けない地点もあります
これについて詳しく伺いたいです。後者は錯覚がなくなった状態でしょうか?
コメントどうもありがとうございます。
ニーチェによる分類のほか、様々な抽象度の高まりによる自我意識の薄れや俗に言う博愛精神の高まり、それらを合わせたような慈悲の発達によるものなどがあります。
引用中の後者についてはその通りとなります。
ニーチェによる法論は、意識の上で意識を操作するというようなタイプのものになりますが、それを此岸とするとそれに対する彼岸といったようなものになるでしょう。
此岸的であれば時に抑圧となりますが、彼岸的となればその場を流れるだけになります。
ありがとうございました。