結局のところ、女性というものは基本的に支配欲の権化であり、僕は、この「女の支配欲から逃れる」という僅かながらの可能性をこの人生のうちの男としての人生の最大の目的にしているフシがあります。
「身の周りの他人を支配し、自分で勝手に決めた理想、自己実現を叶える」
具に観察するとそのようになっています。
「他人を支配して」いかにサボるか、「他人を利用して」いかに自分は恐怖や不安から逃れるか、他人に気を使わせ、いかに「他人の労力」で自己の理想生活を叶えるかということが基本的なところとなります。
そのためにはいかに「いい女」や「いい人」という評価を獲得するか、それが最重要課題であり、そして愛なきにしても愛があったかのような自惚れを演じるという自己防御策があるのみです。
それだけだと言えるでしょう。
対象は、もちろん世間一般の女性に限らず、妻、娘、母や祖母も同様であると思っています。
そうしたものだけではありませんが、根底にはそうした支配欲があります。
すべてが支配欲に基づいているというわけでもありません。
しかし支配欲に基づいているものもたくさんあります。
その中で、僕はその空間に汚染されず、女性本人もその空間から脱しているような世界、それが僕の理想的な世界です。
これは可能性としては、僅かながらの可能性しかありません。
物理生体レベルで言えば、情動を司る「爬虫類脳」が優位にあり、思考はただ利用されるだけにとどまっています。
この思考すらうまく使えない場合、意味不明な論理を「情動に任せて」組み立てているかのような格好をしたり、それも通じないとなると「爬虫類脳」がヒステリーを起こすように仕向けます。
なぜか?
根底が生存本能である爬虫類脳は快・不快しか捉えないからです。
苦痛を避け、快楽を求めるように仕向けます。
そしてその方法を頭が考えた場合「支配」に行き着きやすいということです。
女性の情動の範囲から、その支配対象は家庭や男女の恋愛の空間のみに仕向けられます。
この構造は男性でも同様ですが、その対象は家庭をはじめとした身近な人間関係よりも社会全体や業界内、企業内等々に向きやすい傾向にあります。
その場合接点が少なく、空間を脱しやすいため、さほど問題になりません。
「他人を支配し、自分で勝手に決めた理想、自己実現を叶える」という爬虫類脳の命令に沿った考えは男女にかかわらず起こります。
しかし男性のそれは、強国や国家や企業による支配というマクロ的なことは起こりますが、身近な空間においては「退職」「退会」等々で逃れやすい性質があります。
女の支配欲というものは、それらしい格好では表現されません。
しかし、状況が悪くなった時にその化けの皮が剥がれます。
倫理観や情動による泣き落とし、常識や多数決的な説得、何でも使います。
自分が悪者にならないように、息子や夫や父を前に出します。
そしてある種の「利益」は自分のところに集めるという格好になっています。
なお、今現在僕がこうした女の支配欲にやられているというわけではありません。
僕はある意味誰よりも冷徹です。
ただ、そうして自分自身が支配欲にやられないというだけでなく、支配欲に駆られている相手を支配欲の空間から脱してもらいたいと思っています。
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女の支配欲というものは若い時はムラムラで、そして生まれてから死ぬまで弱者を演じることによって、「愛情は深いが弱き者故に、今、困っているゆえにそれを表現することができない」と演じることによって、相手に様々な負担をさせるというようなもので表現されます。
ムラムラによる釣り、慈悲の悪用というようなものが基本となります。
この支配欲は、心身が疲れれば疲れるほど強くなります。
爬虫類脳の司令が強くなるのですから当然です。
家庭においてはリソース不足がその原因になりやすくなります。
そして現代にはリソースをさらに奪うものがあります。
それは常時接続です。
女の支配欲は、世間体と同性の張り合い、そして仲間空間への安心の依存によって強さが変化します。
この世間体や張り合い、仲間空間への安心の依存に大きく関わるのが「常時接続」です。
それが無ければ「会った時にだけ起こる会話」が延々と続きます。その場で終わる人の目がずっとつきまといます。
常に緊張し、逆に、常に仮の安心空間に逃げ込めるというような特性があります。また、常に動画が見れたり買い物などができることによって、浅いドーパミン獲得への依存も起こります。
常時接続により緊張が起こり、常時接続によって癒やされる、という格好になっています。
そして、それによりリソースが不足します。
するとより心身が疲れます。
するとより支配欲が強くなります。
家庭のことよりもスマートフォンを触ることを優先するようになります。
不機嫌さで周りに気を使わせ、家庭を支配し、画面の中で束の間の安心や快感を得るような人間になります。
こうした環境の中、どのようにすればよいのか?
それは単純で
「あなたは弱者ではない」
と思っておくことです。
なぜ子どもや高齢者がかわいく見えるのか?
本来、かわいいとは「相手は弱い存在であり、守ってあげたくなる気持ち」を指します。
さらに本当にかわいく思える相手は、できるのであれば自分でやりたい、大人になりたい、自分のことは自分でできるよ、という姿勢を持っていたりします。
つまり、本当に弱く、それでいて自分ではしっかりしようと思う姿勢があるからかわいいのです。
ということは、大人の女は、かわいくないのです。
不機嫌で疲れている姿を見せれば「弱者だから守ってあげたくなるだろう」という気持ちが起こって、相手は自分に気を使ってくれるだろう、という支配構造を意図しているだけです。
そうして、厚かましい論理を並べ立てます。
一種の「かわいい」という気持ちやムラムラ、その両方がなくなった時、相手に気を使う必要はなくなります。
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「厚かましく、図々しく、他人の責任で自己実現」
というのが本性です。
そしてその本性は生き物には普遍的に備わっており、男女の区別なくそれが内側に秘められていますが、現実的な空間において「利用できるものが多い」のが女性の側だということです。
弱者救済のヒロイズム、もしかしたら一発よろしく的なムラムラ、「女には手をあげてはならない」という同調圧力などなどがあります。
「手をあげてはならない」というのは対象が女に限定されるようなことではありません。相手が男でも殴るのはよくありません。
しかしながら男の側では「本当に殴られるかもしれない」という危機感から厚かましさが抑制され、自分だけでなく相手を含めた都合、社会性を検討材料に入れて抽象化し、共通項を探して落とし所を探そうとしやすいですが、女の側においては、「何を言っても殴られない」という前提があるため、厚かましさ、図々しさに拍車がかかります。
つまり本能の醜悪な部分が抑制されにくいということです。
常識や世間体を根拠に厚かましさを当たり前かのように主張します。
文句や嘆きは言いますが、何もしません。
モテない男は、子連れの中年女性や高齢女性にすら多少のヒーロー的モテを獲得しようとしたりします。
そのヒーローの道の先はどこにもつながっていません。
実際は「買うつもりのものがキャンペーンで半額だった」というお得感くらいの評価です。
「真実の愛」
それは男を惑わす幻であり、女が最後に自己弁護の自惚れに使う概念です。
ただし、それには但し書きがあります。
「他者からもたらされるであろう真実の愛」
は幻であり
「他者依存をすることのない自己完結した自己愛」は「真実の愛」になり得るということです。
「女の支配欲から逃れる」という僅かながらの可能性はここにあります。
「自己完結した自己愛」を持つ者同士であれば、一種の真実の愛が表現され得る、ということです。
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ヒステリーに屈すると、ヒステリーに味を覚えます。
自分の都合だけでことを進めよう、そして都合が悪くなったらヒステリーを起こせばいいんだ、というような感じです。
本来は
「解決をしなくても構わない」
という感じなのですが、人が良い人達は、相手の感情を落ち着けようとします。
ヒステリー女の要請を真に受けて応じて感情を落ち着けるよりも相手の知能を高めた方が本質的には意味があります。
「行かないでくれ」
というようなことを思っていると相手はつけあがります。
男の側では女に「行かないで」と言われると心底嬉しく思ったりします。だから「行かないでくれ」と言えば、相手も嬉しくなるだろう、惚れ直してくれるだろうと思います。
しかし現実はそんな事はありません。
「行かないでくれ」
などという態度を見せたが最後、厚かましさに拍車がかかり、ついでに「あなたには興奮しません」という烙印まで押されます。
女による支配の完成です。
この要求を通してくれたら、もしかしたら…
という釣りが始まります。
倫理観、慈悲の概念も利用します。
子どもや親などを利用することもあるでしょう。
脅し、暴力、泣き落とし、ムラムラ、子どもを盾に、自分の親という背後にいるもの匂わせて、様々な方法を取ります。
支配が完了するまではどうやって支配空間を構築するかを考えます。そしてそれが完了すると、どのようにして他人の労力で自己の理想を叶えるかというところに意識がシフトします。
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「あなたのためを思って」
というのは、「あなたの母である私の世間体を思って」「あなたの妻である私の体裁を思って」という部分がかなりの比重を占めていたりします。
もちろん、「あなたのため」という部分もありますが、「あなたの母である私の世間体を思って」というものとの比率が1:9くらいになっているのではないかと思うような議論もたくさんあります。
本当に「あなたのため」という部分があるからこそ言い逃れができます。善良な意見であるという逃げができます。
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たまに支配欲があるのは男の方で、女の側には被支配欲があるというようなことがあります。
それは対象の空間によります。
つまり、どこの空間に属している時なのか、支配、被支配の対象は誰かということによって異なるということです。
経済社会全体や職場の中という空間である場合は男性が支配側にあるように映るでしょう。
しかし、もっとミクロな空間、つまり家庭という空間において、対象を息子や夫とした場合、支配欲があるのはたいてい女の方です。
「弱くて保護されるべきは自分である」というような構造をよく利用します。
なので支配しているような構造には映らなかったりします。
しかしよく構造を観察すると、稼ぎの面などがわかりやすいですが「結局、男にやらせている」という格好になっていたりします。
「女が経済社会で稼ぐのは難しいというのは統計上出ている」などと言いながら、その何倍もの稼ぎを夫に要求します。
「稼げない男は情けない」という脅しを間接的に使って。
「母である私を安心させて欲しい」というような脅しで、息子の行動をコントロールします。
支配しているのは女の方です。
そういう感じが原則ではありますが、そうでない女性は全くいないのかというとそんな事はありませんでした。
もちろん祖母と孫という関係であるからこそという部分もありますが母方の祖母には、この支配欲の要素が一切ありませんでした。
だからこそ僅かながらの可能性を思い描いているわけです。
もしかすると女性の側もこの支配欲の空間から逃れるのは、孫というような存在の登場からしかほぼ不可能なのかもしれません。
ただ祖母の場合は対象が僕だけでなく、他の人にも支配欲がないようなふうにしか見えませんでした。
もちろんもっと若い頃のことはわかりません。
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女の支配欲というものは、被支配欲が満たされないことによるヒステリーのようなものである部分もあります。
生物的な弱さや懐胎・育児期間などの生体的な弱まり・環境的な辛さへの恐怖が根底にあるため、家族や身近な人達を支配することで安心しようというようなことも理解することはできます。
しかし一方で自分に支配されるような弱い存在しか周りにはいないということは不安要素にも繋がります。
強い子孫を望むという面も含まれるため、被支配欲は性的な衝動でもあります。
「自分を支配できるほどの強い存在」であれば安心できるわけです。なのでそうした強き者への被支配欲がありながら、一方で身の安全は確保したいということです。
なので理想としては被支配欲が満たされるほどの強者が、先回りをするくらいの手際の良さで勝手にすべてを叶えてくれる空間が理想なのではないかと思います。
そうなると支配欲も登場しない感じになります。支配する必要がないからです。
支配して欲しいというような衝動も、支配しなくてはならないという焦燥もないという感じになります。
こうした感じで様々な矛盾のような衝動が潜んでいます。
これを理性で一貫性を保とうとすると、支配欲か被支配欲かのいずれかが爆発し、ヒステリーが生じるのではないかと思います。
表面的には矛盾を肯定するということが必要になるような感じです。
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女性というものから自立し、非依存の状態になるのが理想ではあるあります。しかし、そこまでいかなくても仮に女の支配欲やその裏に潜む被支配欲から逃れるにはどうすれば良いか?
そのポイントは、様々な空間における「ふれあい」にあります。
これは、ひとつの慈悲の実践のようなものになるのかもしれません。
親子であれ夫婦であれ、付き合いが長いほど直接的なふれあいは少なくなっていきます。
それによって、軋轢は生まれやすくなり、支配欲は加速し、ヒステリーが起こりやすくなります。
別の表現をすれば、ふれあいが少なくなることで、オキシトシンやセロトニンが不足し、両者の間で相互に愛着がなくなっていくということです。
このふれあいとは物理空間における直接的なスキンシップのようなものをはじめ、言語・思考の空間においても同様です。
もちろん臨場感の強いスキンシップの方が強いことは言うまでもありません。
極端な支配欲の例で言えば、幼児である娘は僕が他の人と話していると基本的に怒ります。妻と話しているだけでも騒ぎ出して話を中断させようとします。端的には邪魔をしてきます。
しかし、ある程度の時間おんぶ散歩をした後は、この現象は起こりません。
付き合いが長くなっても安定的に撫でたりする習慣が変化しないという対象はたいてい動物です。対人間の場合は、肌が触れ合う機会がどんどん減っていきます。
「安定的に撫でたりしているからこそ、愛着の対象として強くなり、それが維持される」
というようなことをかつて養子のうさぎが教えてくれました。
子どもとは手をつなぎますが、夫婦で手を繋いでいる姿をあまり見かけたことはありません。
これはそれぞれ愛着の対象が子どもだけになり、夫婦の愛着は薄れていくことを仄かに示しています。
夫婦に限って考えれば元々相手に興奮していたものが興奮が減少していきます。
しかしながら、「なかよし」には、興奮と快感・快楽、そして幸福という3つの基本ベクトルがあります。
社会的承認なども絡んできますが、これは興奮や部分的な幸福に絡んできます。
抑圧された支配欲、被支配欲のカタルシスは全てに絡んでいたりもしますが、バランスの比重はバラバラです。
こうしたものは「お付き合い」においても同じような傾向があります。
年齢が若い、経験が浅いと興奮に比重を起きがちですが、本来はどんどんと幸福の方にシフトしていきます。
それはふれあいによる幸福、ふれあいによる愛着によって形成されていきます。
しかしながら興奮と快感、社会的承認などに囚われていると幸福という部分が見えなくなってしまいます。
幸福は仮観的に考えれば、他者との心の交流になります。空観的に考えれば、内と外という分離の不安、外界との境目がなくなり安心が起こるというような感じになるでしょう。
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安い心理テクニックや夜テクを磨けば前の2つは満たされるかもしれません。しかし、最後の幸福は感じることができません。
話は少し飛びますが、近年たまに報道されるような「何かしらの圧力で異性をたぶらかせるような者」は興奮に比重を置きすぎです。
それだけ頭が爬虫類脳優位となり、支配欲で満たされているということです。
なぜか?
愛着の対象がなくなったり薄れたりして安らぐことがなく、何かに囚われ、やりたくないことをやるような生き方をしているからです。そして焦り、急いでいるからです。
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少し話が飛んでしまいましたがふれあいに戻りましょう。
うさぎを撫でる時は体を撫でるくらいしかありません。
人の場合は、直接体を撫でることもできますが、言語空間によっても撫でることができます。
「女の話はくだらない」
その通り、くだらない話が多く、聞くに辟易してしまうかもしれません。
それは通常の会話をしていると思うから辛くなるだけです。
相手の話を聞く、多少の返答をするということを、情報空間、相手の頭の中を撫でていると思えば、少し意味合いが変わってきます。
「話を聞いて欲しい」
というのは、
頭の中、思考空間を撫でて欲しいとイコールだと思っておくくらいでちょうど良いという感じです。
ヒステリー混じりの話であるならば、ガチガチの肩こりのようなものが思考の空間で形成されていると思えばいいのです。
それによって何かを確約させ、自分の都合にシフトさせようとする支配欲に駆り立てられている相手に対して、論理の上では確約せず、思考空間という情報空間で撫でるということをしてみると、その支配欲は静まっていくかもしれません。
―
といっても最も重要なことは、自他の分離の感覚から逃れること。
たったそれだけです。
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