個人的には昔から年に数回ショートバケーション的なものをちらほら挟むようにしています。とはいっても、そうしたものを取りにくい状況が続いていて、なかなか実現しませんでした。
今回の年末年始を中心に休んでみようと思いつつも、家族というものの存在すら本来の孤独的な休息にはならないので、あえて仕事を遅めから開始することで強制的に休むことにしました。
「別に大丈夫だ」という感想自体が、弱まっている時に慣れてしまって大丈夫であると感じているだけかもしれないということで、「一応体も動くし頭も働く」というような感じであってもあえて強制的に休むということをしました。
その結果、睡眠時間や睡眠の質、そしてひとり時間の量と質によって、すべての流れが大きく変わることを実感しました。
以前は1時間かかっていたことが本当に5分、10分で終わります。
予定に気を揉むこともありません。
これは個人的なものかもしれませんが、昔から今どれくらいのコンディションかを確認するコツがあります。
それは、目を閉じてやや上を見た時に、ピキッとなるかどうかです。
ピキッという刺激があればコンディションは50%未満です。
50%を下回ると、とにもかくにも面倒なことに意識が向きます。
面倒なことで、後々必ずやることなのだから、ぼんやりしながらでもやりこなしておこう、というような気持ちになります。
そうなると動きも遅く、楽しくもありません。
しかしながらしっかり休んで頭が働きまくっている時は、ぱぱっとこなすこと自体が楽しいというような気分にすらなります。
好循環です。
ちなみにコンディションが良い時というのは、興奮して「うおーーー」となるというようなものではなく、空気のようになっているような時です。
重さがなくなり、軽くなっています。
調子が悪い時はなんとか踏ん張っているような感じがせいぜいだったとしても、調子が良いとデコピンで終わらせることができるというような感じです。
社会性や言語を排除したひとり時間
コンディションが50%未満である時は、意識が下に向きやすく、悪循環が続くため50%以上にはなりにくくなります。
ゆっくり回復するというのもいいですが、一度くらいは思いっきり舵を切らないと、50%を超えないのではないか、と思った僕は、病中時代を思い出し、長時間の散歩に出ることにしました(ひとことで触れていました)。
特になんてことのない散歩です。
違うことといえば、長時間であることです。
とはいっても結局山の方に行きました。
山までは何かで向かうというようなことをせずに山の麓までも歩いていくというような感じで向かいました。
といってもさほど登るということもなく、少しだけ登ってグルっとまわって歩いて帰るという程度でした。
「そんなことをして何になるんだ」というものこそ、実は大切なものだったりします。
孤独バンザイ、人の役に立たないことバンザイです。
それをあまりに遠ざけてしまうと、調子はどんどんジリ貧になっていきます。
現代社会には本来の意味での「祭り」がありません。
ということで、自力でなんとかするしかありません。
といっても騒ぐわけでもなく、ただただひとり時間を満喫です。
頭が癒えると体も治る
正月明けの個人的な休養期間で一番実感したのは頭が癒えると体も治るということです。
頭というか、自分の中の情報を落ち着けると、体に直接働きかけを行わなくても体が治っていきました。
もちろん体からアプローチしても良いとは思います。
しかし、今回は「頭の中」を徹底的にクリアにすることにしました。
一番大切にしたのは、「呼吸に意識を向ける。吐く時に力を緩める」といったことを徹底的に行うことです。精度の高いヴィパッサナーを心がけるということですね。
これは特別な呼吸法というわけではありません。
しかしながら特別感がないからと言って、飽きてやめてしまっては元の木阿弥です。
気が散っていると、普通はすぐにやめてしまいます。
すぐにやめてしまうと
「別の手っ取り早い方法は無いだろうか」と探しに探して、結局何の成果もないままという感じになってしまいます。
頭が疲れていたり、頭にゴミが溜まっていてうまく働かない時は、そうした感じになってしまいがちですが、そこだけは踏ん張りどころです。
基本的にそこについては毎日心がけていました。
気が済むまで歩く
それで、先日散歩に出かけた際、気づけば山歩きを含めて17000歩以上歩いていました。帰りに銭湯に寄ったりしたので、体力的にはフラフラとなりました。
しかしそのフラフラ感が良かったのではないかと思います。
特に翌日以降体にダメージがあるわけでもなく、逆に爽快でした。
それからというもの、業務等々がサクサク片付いていきます。
何より様々な業務や雑事に対する姿勢が違います。
結局、無理にでも休養を取って、加速した方がすべてにおいて効率が良いのではないかと思います。