知識の習得という逃避と内なるものへの実践

実践という言葉自体が、知識を用いて自然や社会に対して行う実際の行動、つまり知識を組み立てて形成した主義や思想を元に外界に働きかけること等々として定義されている感がありますが、そうした事を言っている人たちは、なんだか偉そうなことを言っているように見えて、単に逃げているだけであると考えることもできます。

厳密には逃げていると言うよりも「自らの思考に騙されている」といった方が正しいのかもしれません。

世の中にはたくさんの知識のようなものがあります。

そして知識は素晴らしいものとして扱われています。

それら知識というもの自体は良いのですが、結局「知識の習得」を素晴らしいものとして扱いすぎて、それに逃げるということがよく起こってしまいます。

内なるものと向き合うことへの恐怖

いくら知識を増やしても良い方向に向かわない場合、それは内なるものと向き合うことを避けています。変化することへの恐怖から、実践することを避けています。

なぜなら、変化は一種の死を意味するからです。

「良いふうに変化すること」、「願い事が実現すること」はそれを追い求めている自分の死を意味します。

ただ、それはそれで現状に不満があります。そこで、知識を増やしたりすることで安らぎを得ようとします。

外界に働きかけることには賛成します。

自分自身は変化させないからです。

自分自身の知識を増やすことにも賛成します。

自分の「内なるもの」には働きかけないからです。

主義・思想・宗教を渡り歩く人たち

世の中には、様々な主義・思想、宗教を渡り歩く人がいます。

なぜそんなことになるのか?

内なるものへの実践を避けているからです。

本当に「内なるもの」と向き合うことができるのであれば、主義・思想・宗教は必要ありません。

もしスタートがそれら主義・思想・宗教であっても、必ずその領域から脱することができます。

そして宗教であれば開祖がどういう視点で何を思ってそういう事を言ったのかがすぐにわかります。

学業を逃げに使う人たち

以前、何かで見ましたが、奨学金制度に対して文句を言っている大学院生か何かがいました。

彼らは頑なに認めません。

自分たちが学業というものに逃げ、学業というものに価値をつけすぎ、学業という世界のお客になっただけで、半ば騙されていたのだということを。

かつて、「勉強のため」という理由であれば、保護者は言うことを聞いたのかもしれません。

ただ、気軽に女子を連れ込める部屋が欲しかっただけの動機を「学業のために一人暮らしを」などと言っても通じていたのかもしれません。

「社会に出たくはないが、大学院生であればバカにはされない」とか「そこに行けば大人が黙るだろう」という程度の動機で、学業への意志も実力もないからこそ、奨学金制度に文句を言うような人間なのではないか、とも思ってしまします。

だからこそ、企業も大学もそうした人たちを採用しようとはしないということで結局奨学金という制度自体に文句を言う、ということです。

「嫌なら行かなければ良かったじゃないか」

の一言です。

学業というものはある程度までは暗記が中心となります。

しかし「学者になる」となると、そうした部分だけでは通用しません。

何を勉強していたの?

暗記だけでは通用しない大学院というレベルになって、その世界では通用しないことが現実になってきただけじゃないか。

こういうのはよくある「内なるもの」からの逃避です。

その学術の空間のことよりも奨学金という制度自体への文句に意識が向いているくらいですから。

「知識の習得」への態度

そうなると、学習すること、知識を習得することを否定する人達も出てきます。しかし、これはそういう問題ではありません。

「知識の習得」を免罪符に使ってはならないということであり、また、「知識の習得」を「内なるものへの実践」からの逃避に使ってはならないということです。

己の心(ここでは精神としての心)と向き合わずに外に働きかけを行ったり、知識の習得に逃げてはならないということです。

内なるものへの実践

ここで実践というと「知識を組み立てて実際にやってみよう」ということになりますが、現実的な実践をすればそれでいいのかというとそれ自体が「内なるものへの実践に対する逃げ」になることがあります。そうした現実的実践は外界への働きかけだからです。

もちろん「内なるものへの実践」につながるものもあります。

わかりやすいものは「『起業したいができない』と思っていた人が本当に勤め先を辞めて起業する時」等々です。

「起業したいができない」という面に対して、何かしらの心理的抵抗があったものを、その抵抗を突破する知識を組み立てて実践したかもしれないからです。

しかし世の中にはう◯このでかい雑な人たちもいます。なので起業したからと言って「内なるものへの実践」というプロセスがあったかどうかはわかりません。単に「世間体のために保護者がお金を出してやらせているだけ」という場合もありますから。

ということで、知識はそれを組み立てて内なる抵抗を越える時に意味が出てきます。

なので、それができるのであれば知識は少なくても構わないということになります。

外界の情報の集合である自我

基本的に思考という機能たる「自我」は外界の情報の集合です。

つまり、自分以外の他者からの情報で形成されています。組み合わせパターンに独自性があるというだけで、元の情報たちはオリジナルではありません。

それら情報は、生存本能からの恐怖心を元に重要度が配置されています。

なので基本的には思考というものは恐怖でできています。

それは、心の「抵抗」として形成されていきます。

知識はそれを乗り越えるために使うものです。

知識を用いて「内なる抵抗を越える実践」が本当の実践です。

それは現実社会で何かしらの行動を実践することよりも恐ろしいことです。

一種の「自我の死」を意味しますから。

そこで、自我は「知識の習得」を逃げに使います。

「何もやってないってことは無いんだからいいだろう?知識の習得は世間でも評価されているじゃないか。それでいいじゃないか」

といったふうに。

「どんな世界が良いか?」の選択

こうした内なるものへの実践は、客観的な世界、つまり世間を含めた社会ではなく、「この心が受け取る世界はどんな世界がいいのか?」ということを、一切の条件無しで「捉える」ということが第一歩となります。

世界という言葉が世界各国を合わせたような客観的な世界を想起してしまうのなら、宇宙でも構いません。そして宇宙が星がたくさんある宇宙を想起してしまうなら「自分の宇宙」で構いません。

どう考えようが、自分の心(ここでは認識する働き)が、今の「ここ」にしかないのであれば、宇宙は自分の宇宙とイコールですし、世界は自分の世界とイコールです。

そして、それは様々な要素を具体化して考えてもいいですが、最終的には抽象化していった方がより楽になります。

言語化した場合「喜劇」や「爆笑」でも構わないわけです。

選択した世界への確信

そうした世界を選択した後は、その確信がどれほどあるかという問題になってきます。

客観的な現実世界を見渡した時、その確信がぐらつくのであれば、確信を高める「内なるものへの実践」が必要になります。

それは現実世界を無視することかもしれませんし、何かしらの方法で選択した世界への臨場感を高めることかもしれません。確信を阻害する情報を破壊することかもしれませんし、知識を用いて「抵抗を越える」ということかもしれません。

日常レベルではそれで十分です。

それに沿ったものがよく見えるようになり、現実がそれに沿って展開します。

究極は「無条件の安穏」となる

「この心が受け取る世界はどんな世界がいいのか?」の究極は「無条件の安穏」となります。

一切の条件を必要とせず、どのような現象があろうが心が安らいでいるというようなものです。

現実世界の自分は「反応」しているかもしれません。爆笑することもあれば、怒りに満ちている状況にある場合もあるでしょう。

しかし、本質的な心は安穏の中にいるという感じになります。

Category:philosophy 哲学

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