アフォリズム 591-600
- 591.不可解な言動
- 592.堅苦しい文体の変換
- 593.感覚に対する社会的圧力
- 594相対化や弁証法な思考方法の一部制限
- 595.いつかは消える
- 596.祝いの圧力
- 597.「もったいない」の判断
- 598.作業時間の短縮
- 599.食の不一致
- 600.一分一秒
591.不可解な言動
不可解な言動は、体感や非言語的印象をうまく表現できないことに由来する。
たいていは、何かしらの不満があり、それをどう解消すれば良いのかというところに迷いが生じている中、衝動が限界を超えているからこそ表出する、という構造になっている。
592.堅苦しい文体の変換
いくら良い内容のものでも、堅苦しい文体であると息苦しくなる。
ある程度の印象だけ捉えて、好きな漫才師や噺家が話しているかのように、文体変換をしながら読むと、息苦しさはマシになり、内容への抵抗感も和らぎ、内容を素直に受け取りやすくなる。
593.感覚に対する社会的圧力
「どうしても合わない」「嫌悪感がある」という感覚等に対してまで、それを否定するような「絶対にこう考えなければならない」という圧力が社会に蔓延している。
個人的感覚に対して特に論証もないような論理で社会が圧力をかけると、その歪みがどこかに発現するだろう。
594相対化や弁証法な思考方法の一部制限
相対化や弁証法的な思考方法は、思考鍛錬や問題解決には有効的な面があるものの、中途半端な論理力では、カルト的論理を肯定することになりかねない。
思考の際に用いるのは構わないが、あるレベル以上にならない限り、自他の生命等を思考対象にすべきではない。
例えば、仮観に対する空観のみでは、快楽のために他の生命を奪うことも肯定することができるが、「快楽のために他の生命を奪わなければ、幸せを感じられない」という構造自体に問題の目を向けるということをしなくなるという恐れがある。
595.いつかは消える
何かをおもしろいと思ったことも、かわいいと思ったことも、「こんな日のことは忘れてしまうんだろうなぁ」と思いつつ覚えていることも、いつかは消える。仮に記録として物理的に何かが存続するとしても、記憶を元にこの心が捉えるという点においては、全てが消える。
幾多の記憶も、褒め称えられる功績も、残していたら恥ずかしいような物も、この「私」に紐づいているものが、結び目が、すべて消える。
596.祝いの圧力
祝いというものは、その先にある日常が苦痛で仕方ない場合の逃げ道を塞ぐ圧力になる。
祝うことによって力を与えるのも構わないが、力の逃げ道も同時に作ることが望ましい。
可能であれば、祝う対象を抽象化すると良いだろう。
かつて両親に就職祝いを渡された時、「これは、その会社に行くことに対してではなく、社会に出ることに対しての祝いである」と釘を差されたことを思い出す。
597.「もったいない」の判断
会社や学校等々を辞める時、「せっかく良いところに入ったのに辞めるなんてもったいない」という言葉をかける人間は、その空間に入ったこともなければ、まして自分と同じ状況でその空間を味わっているわけでもなく、単に世間の情報によって推測しているにしかすぎない。
598.作業時間の短縮
様々な細切れの作業は、可能な限り集中して短時間で終わらせるように心がけていると、どんどん慣れて作業時間がどんどん短縮されていく。
物事を早く終わらせようとすると疲れると思いがちであるが、集中力を高めて早く完了させることをゲームのように楽しむと、時間短縮の他に疲れも低減させることができるというメリットが生じる。
その上、すべての動きが速くなる。
599.食の不一致
家族仲が崩れる要因のひとつとして、腹具合や気分を含め「今、食べたいもの」が異なる中、同じものを食すというような点がある。
腹具合に応じたもの、体が必要としているもの、気分を高めるものが異なる中、折衷案や相手に合わせるような形になるからこそ、最適な食事が取れず、共に過ごす快適さが失われてしまうことがある。また、違いによる相手の魅力というものも減ってしまうだろう。
その細かな「最適な食事からのズレ」は数回ならば問題は生じないが、長期間のうちにそれが積み重なると家族仲にも影響を与えかねない。
「同じ釜の飯」による結束も良いが、人々が様々な味の刺激に慣れつつ、栄養バランスの崩れた現代社会においては、それは時に仲違いを生じさせることもある。
ただ、それぞれに合わせてメニューを異なるものにするとなると、調理の労力が何倍にも膨れ上がってしまう。
そう考えると、様々なメニューが用意されている場所で外食をするということが、時にそれを解決することになる。
ただ、外国の一部の国のように「基本的に毎日同じようなものしか食べない」という場合は、このような問題は生じ得ないと考えられる。
600.一分一秒
実際問題として、あと一分後に、あと一秒後に、とても気が楽になるような現象が起こるかもしれないという可能性は常に潜んでいる。
浮かばないと思っていたアイデアを突然ひらめくこともあるだろう。
嬉しいお知らせが飛び込んでくることもあるし、インターホンが鳴ってプレゼントが届くかもしれない。大口の仕事が舞い込んでくることもあるし、友人から久しぶりの連絡が来るということもあるだろう。
その可能性は常にある。
「一分後に本当に気が楽になる現象が起こる」ということがわかっているのであれば、きっと今すぐに気が楽になるだろう。
そこで「今すぐに気を楽にすれば良い」ということなるが、「おい、一分待ってやったぞ。一秒待ってやったぞ」という傲りと怒りが生じる。
おいおい、何もできない君が何をほざいているのかね?
最終更新日: