厳密には「大いなる自己肯定」の肯定の対象は自己ではないのですが、それ以外に近い言葉がないので致し方なく自己と表記した上で、大いなる自己肯定について触れていきます。
端的には「~から」という理由づけのない、根拠のない自己肯定のようなものです。
自己中心的な視点からのスタートし、より全体へと視点が広がり、また逆流し、最終的には自己に収束していくような「意識や精神レベルの変遷」と「自己肯定感というようなものとはまた違った大いなる自己肯定」について触れていきます。
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「名とすべて」「虚しさの先にある安穏」の時と同様に雑記第300投稿目記念として、あまり理解できないかもしれないような感じふわふわと書いていきます。哲学テーマでもいいのですが、今回もまた雑記にしておきます。
自己中心的な視点からのスタート
「自己中心的」という言葉があります。それは概ね協調性を含めた社会性が無い者への非難の言葉として使われます。
ただ、空観的な見方をすれば自己以外は存在しているのかどうかすら確定的ではありません。
であるのならば、社会のことなどお構いなしということにもなりますが、二者以上からなる社会においては、それはそれでなかなかうまくいきません。
苦とは「思い通りにならない」という精神の苦しみが中心です。外界の状態を心の安穏の条件とするような形で、精神が囚われている状態で不確定な外界を「お構いなし」としても、外界がそれを良しとしてくれなかったりするので、なかなかうまくいきません。
そして、自分のためにということに意識が向きすぎると、その自分の精神が蝕まれるということも起こったりします。
社会の方に意識を向けた方が精神としては安定するというようなことが起こったりするわけです。
しかしながら、結局全ては自分が捉えただけのものが、自分の世界を構成しています。
そんな感じで「自分のため」ということについて混乱が生じてしまいます。
奥の奥にある動機を探る
なんだか社会的にうまくいっていそうな人を見ると、それが到達点かのように見えてしまうことがありますが、動機なき行動は起こり得ないという点から考えると、何かしらの不足から行動を起こしているということにもなりそうな雰囲気が出てきます。
本当に奥の奥にある動機を見るようにしてみると、社会的にはすごいとされているようなことでも、結局奥にあるものは生命としての恐怖心や不足が根源になっているということはよくあります。
個人から社会へ
ある程度レベルの低い領域を見渡すとそうしたものは一目瞭然です。
自己中心的で社会のことを全く考えていない人よりも、些か社会的でさらに正義のような感じで振る舞っている人の方が評価されるような雰囲気がありますが、結局正義的になっているものを見ても、その奥にあるものは、本質的な安定からくるものではなかったりします。
すなわち、社会的無関心よりも世間に関心がある方が良いように見えますが、例えばニュースに反応し、意見を述べるような感じを具に観察すると、一種の自尊心の欠落を埋めるためのヒロイズム的行動にしか見えなかったりします。
コメントというような行動一つとっても「なぜそうした行動を起こしたのか?」というところの本当の動機を考えれば、慈悲的な余裕ではなく、恐怖を根底とした怒りの反応であるということがほとんどでしょう。
もちろん社会というものそのものにおいて、人々のそうした行動自体はいいですが、個人的問題として、自分の精神のことを見ようとする機会はほとんどありません。
「社会的に」、「正義のために」というのは簡単ですし、それはそれで構いませんが、その裏側で心が安らぎに帰しているのかというところは棚上げされているような気がします。
空観的に考えると「社会が良くなれば、自分の心も穏やかになれる」という構造は、自作自演の遠回りな感じになっています。
それはそれで精神の上でのひとつの構造的な正しさはありますが、「社会が良くならなければ、自分の心は穏やかにはなれない」というような前提が潜んでいます。
また、自己中心的で社会的無関心よりは、社会に関心があって社会性がある方がいいだろう、という感じは、世間においては絶対視されているフシがあります。
しかしそれは哲学的には絶対ではありませんし、本質的にも絶対ではありません。
際限がないので逆流
そして社会の方に目が向いているからといっても、ある程度限定的になっていたりします。個人が多種多様な社会の全体を見て、問題を抱えることは構造上不可能だからです。
例えばあるニュースに関して無関心だとすれば、それに無関心であるということは人格が異常であると考える人もいます。
しかし、その人が知らないニュースについては、その人も無関心の前提となるものがないので検討にすら入っていません。
全てのことに関心を向けようと思っても構造上不可能であるため、結局関心が向いている先は限定的ということになります。
となると、構造上致し方ありませんが、一種の偏見となってしまいます。そしてそれに関心を向けない人に対する怒りがあるのであれば、偏見と執著が組み合わさっている形になります。
一旦は社会の方に目を向けることで「自己への執著が薄れ、精神が安らぐ」というような感じになっていったとしても、そのうち結局際限がないことに気づくことになります。
そして関心を向ける矛先がどんどん逆流していきます。
最初の自己は「我」の意識
そうして、どんどん「我」の方に意識が向いていきますが、最初の自己は「我」の意識、とりわけ動物的で辺縁系的な雰囲気の自己中心的な「我」への意識であったものの、一度意識の先が全体的な方に向いてから向かう我への意識は少し様子が異なったものになっていきます。
社会的な正義のことを考えても、最終的に自分がどう感じるかだけであり、究極的には空観的に自作自演といった構造になってしまいます。
逆向きに進み続けマイナスに届きそうになる時に起こる自己肯定
社会全体といった方向とは逆方向に、我の方向に進み続けもはやマイナスに届きそう、といったところまで進んだ時、自我と心の関係が明確に見えてくるようになります。
「ただ認識する働きであるこの『心』のため」というところから全てを見るようになっていきます。
そうなってくると、社会で説かれているような「~だから」というような理由付けに支えられた自尊や自己肯定は必要なくなります。
そして「~なくせに」という言葉をかけられてもそれは虚空に舞うようになります。
精神の上では一切の条件が必要なくなります。
身体的で直接的な不快は依然起こりますが、精神の影響による無駄な緊張は無くなります。
不安感や鬱屈した精神から起こるような苦しみはなくなり、「根拠なき大いなる自己肯定が揺るぎなく」というような感じになります。
様々な偏見や「べき論」からも解放されていきます。
同語反復的に「素晴らしいから素晴らしい」という感じになります。
揚げ足取りの構造
ただ自分が幸せであれば良いという感じになると、自己中心的であるというふうに捉えられがちですが、自分しか「幸せである」ということを受け取ることはできません。
言語の性質上語弊が生まれそうな感じですが、ある意味で「自分しか幸せになれない」とか「自分しか幸せにすることができない」という感じになります。
人が幸せな姿を見ても喜ぶのは自分ですから、結局そこに収束していきます。
しかしだからといって社会性が欠如しているというわけでもありませんし、両方を成り立たせることもできます。
ただ、社会性があるかどうかというところについては、どの程度ならば良いのかという点において際限がないため「偏見」で揚げ足を取ることはいくらでも可能という構造になっています。
相手に要求され論証せよと言われて仮に論証しても、定義や範囲の問題で不足点を指摘することはいくらでも可能です。
何をどの程度まですれば良いのかという点に関して相手のさじ加減しだいという感じになっているので、そうした領域に立つと論理上も精神上も相手のコントロール下に入ってしまいます。
ということで、駄々をこねる人のバッシングのようなものも虚空に舞うしかなくなるという感じになります。
空観に対する理解が部分的になると
と、ここまではニーチェ的な「超人」的な感じですが、この自己肯定の裏に何かしらの執著が潜んでいると、時にナチスのようになります。
空観に対する理解が部分的となり、ただ理性のリミッターが外れただけの人になってしまいます。
自信があるとか迷いなく突き進むとか生活が充実するというのはいいですが、結局アイツこと自我の内側で暴走するだけになってしまいます。
空観に対する理解と心の構造の理解は頭で理解しただけでは不完全になります。
「であるのならば何をしてもいい」という感じになりがちです。
この時、何かをしようと思う時の動機の方にも着目せねばなりません。
何かしらが欠落しているからそれを埋めるべく求めるという感じになっています。「安らぎの欠落」から「過剰であることへの排除欲」が起こり、怒りが生じているということもあります。
そうした己の精神を観察せずにただ空観を頭で理解すると、大いなる自己肯定は、横暴な狂人を生み出すだけになりかねません。そしてそれはその人自身をも苦しめます。
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ゼロに到達する時、自己への執著から起こる傲り、または恐怖、それらを解放したような肯定が起こります。
名とすべて(雑記第100投稿目記念)
虚しさの先にある安穏(雑記第200投稿目記念)
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