再びぼくの意識に、たっぷり充電された状態で浮び上がってきた
あまり気にかけなくなった対象やほぼ忘れていたような物事であっても、ふとした時に「再びぼくの意識に、たっぷり充電された状態で浮び上がってきた」といった感じで、より洗練された形で復活してくることがあります。 その中でもとりわけ一度沈みまた浮かび上がってくるもの、それは意欲などになるのではないでしょうか。意欲すら洗練されて復活するという感じ
腰をおろして泣いていた
ふと気付けば歩道橋で腰をおろして泣いていたという経験があります。 それは夏の疲れがもたらしたものなのか、ふと気付いた何かしらの虚しさなのかはよくわかりません。 秋風がもたらした愁嘆。 それは何だか体からの本音のような、体が限界にきたからこその悔し涙のような、それよりももっと哲学的な「生きてるって何だろ生きてるって何?」のような雰囲気だ
厚化粧した廃墟
廃墟というと八幡の通称軍人病院を思い出します。その場所は、尾ひれがついてまた尾ひれが付き軍人病院と呼ばれていました。 なお、現在では立入禁止になっているようです。 心霊現象が絶えないという感じのようですが、おそらく思い込みからやってきているのでしょう。「実際には軍人病院では無かった」という場合に「負傷した兵隊を見た」というのは、辻褄が
ある種の侮蔑
何かを必要以上に保護することは、ある種の侮蔑を意味することになってしまうという構造を持っています。 「〇〇だから大目に見ろ」「〇〇だから仕方がない」というような論調は、その属性を持ちつつも為し得るべきことを成し遂げた人々を侮蔑することにもなります。 そしてそうした達成の可能性をハナから放棄することにもなりかねず、それは俗的表現をすれば
主人公の最後の叫び
人体の構造上、「いえあおう」の順番で音の出る部分が奥に入っていき、軽々しいものから重々しいものへと変化していきます。 これは、そのまま情報空間に対するもの~物理空間に対するものというバロメーターを示すという感じになっています。「い」なら情報的で意識寄り、「う」なら物理的で肉体寄りといった感じです。 「いえあおう」の順でわかる意識的な叫
燃やしてしまった写真
デジタルデータとして残すというのが基本となった現代では、写真を燃やすという行動が未だに個人レベルで起こっているのかはわかりませんが、昔はよく写真を燃やすという描写がよくありました。今それを垣間見れるのは、抗議行動かカラオケのイメージ映像くらいのような気もします(実際にあるのかは知りません)。 そういえば、中学校卒業の頃の話になりますが
共通の話題にしえない運命があったからといって
年齢や地域や日常の生活が異なれば、それだけ同じ話題で盛り上がるという可能性は低くなっていきますし、国が異なれば共通の部分などもっと僅かなものになるので、話の内容がある種原始的になっていきます。 同世代の人達と会う時であっても、十代の時ならば同じような情報に触れていたりするので会話にも困りませんが、今頃となっては社会の中でどう生きてきた