孤独な人々に
われわれが他の人間の名誉を世間の目の前で大切にするのと同じように、独言を言うときにも大切にするのでないならば、われわれは行儀の悪い人間である。 曙光 569 孤独な人々と独り言、ということで、稀に誰に話すわけでもなく一人でブツブツ言っている人について書いていきましょう。 僕は昔から変な人が好きです。およそ誰からも相手にされていないような、世間で言う変人の人には積極的に声をかけていました。ということでおそらく僕も変人なのです。 仲間内で前日のスポーツ報道や今朝のニュースの話をしているような、いわゆる「普通の人っぽい人
愛の治療法
相変わらず大ていの場合愛にはあの古い荒療治が効く。愛し返すことである。 曙光 415 愛の治療法ということで、冷めた男女の治療法についてでも書いていきましょう。 冷めた男女の治療法を求め、冷めた関係の修復や復縁を切に願っているというケースもよく見られますが、たいていはその執着によって関係修復や復縁とは逆行した流れになることがよくあります。 「前と同じとまではいかないが、そこそこ愛し合えるような関係に戻れたらなぁ」 そうは思いつつも苛立ちばかりが募り、最も愛した相手であるのに最も憎らしく思ってしまう程になってしまうこ
貧困に耐える
貴族の素姓の大きな美点は、その素姓が貧困をよりよく耐えさせることである。 曙光 200 貧困と貧乏マインドは相関関係どころか因果関係ですらあります。 寄付をすると金持ちになる、というようなことが囁かれる場合がありますが、問題はその行動ではなく、その行動時のマインドにあります。 実際の行為行動よりもその時の精神状態の方が重要です。 貧乏マインド その理屈は非常に簡単で、貧乏マインドなら「惜しい」と思い、「数限りあるお金が減っていく」ということや「その分を稼ぐにはまたあれほどの辛い思いをしなければならない」というような
利己主義対利己主義
利己主義対利己主義と、これはまあ面白みのあるタイトルです。 社会の中で議論されているような題材のことは、概して利己主義対利己主義で、社会目線の議論の中で、より優れた理論を武器に結局他人を説得しようとしているものにしかすぎません。 もし、「何が正しいか?」ということに対して思索が動き出したなら、次のように考えることをおすすめしておきます。 「これは私にとって正しいのか?」 ということです。 「社会性」を徹底的に排除する 何かの基準を元に行動を選択するということを常々しているはずですが、そうした基準を持つ際に「社会性」
詩人と鳥
不死鳥が詩人に、灼熱して炭になろうとする一巻を示した。「驚くな!」とそれは言った。「これは君の作品だ!それは時代精神を持たないし、いわんや時代に逆らう人々の精神などは持っていない。従ってそれは焼かなければならない。しかしこれはよい徴候である。多くの種類の曙光がある。」 曙光 568 ここで曙光という言葉が出てきましたね。 さて、詩人と鳥です。その両方に関連したことが思い浮かべばいいのですが、「Mrベーター」の「鳥よ鳥よ鳥たちよ。丹頂鶴はさ…」しか思い浮かばないので、ひとまず詩人について触れていきます。 文学的な短歌
この衝動が荒れ狂いさえすれば、禍いなるかな!
他人たちに対する愛着と配慮の衝動(「同情的好意」)が現在の二倍の強さになるとすれば、地上では全く耐えきれないであろう。日々刻々、各人が自分自身に対する愛着と配慮からどんなに数々の愚行を犯すか、またそのとき彼がいかに耐えがたいものとみられるかを、まあちょっと考慮するがよい。 曙光 143 前半 人に止められてでもやってしまうこと、それが良い方向に動けば偉業が成し遂げられ、悪い方向に向かえば我が身を滅ぼすことになりかねません。 悪い方向に向かった場合は、まさに「この衝動が荒れ狂いさえすれば、禍いなるかな!」です。 やる
寝たきりうさぎとの過ごし方
先日の「うさぎの死 さようならわが息子よ」で予告しましたとおり、「寝たきりうさぎとの過ごし方」について書いておこうと思います。何度か斜頸(しゃけい)症状が出ていましたが、10歳半の高齢うさぎだったため、最終的な死因は老衰だったと思います。 うちのうさぎは、「神経症状を抑えるステロイドの効きめが限界に来たようだ」ということで、片足不随になりつつ、マッサージ等々で回復と再発を繰り返しながらも、ある時点でまっすぐに立とうにも足に力が入らないようになり、その後寝たきりになりました。 以下は、獣医との相談の上で僕自身が「うさ
不殺生戒と人を殺してはいけない理由
不殺生戒(アヒンサー)と人を殺してはいけない理由、という感じで、生き物の命について書いていきます。 戒めとしての不殺生戒(ふせっしょうかい)をただの戒めとせず、全ての生き物に対する不殺生について、その本質と不殺生戒の本意について書いていきます。また、不殺生戒と合わせて「人を殺してはいけない理由について」も書きますが、もちろん人だけではなく、全ての生き物に対する殺生を否定することについてが主題となります。 殺生を禁ずる「生き物を殺してはいけない」という戒律、「不殺生戒(アヒンサー)」と呼ばれるものは仏教における「戒め
うさぎの死 さようならわが息子よ
寝たきりの要介護状態となり、実家の僕の部屋で家族総出で介護を続けていましたが、本日早朝前、養子のうさぎが亡くなりました。 夏頃から片足半身不随となっていましたが、マッサージなどで復活したり、また具合が悪くなったりという感じを繰り返していました(マッサージでうさぎの斜頸&片足不随を治す)。 その後完全に立てなくなったのは今年の8月13日。右側を下に向けるようにして寝たきりになりました。それから80日、家族総出でうさぎの介護が始まりました。 「小動物は寝たきりになるとそれからが早い」 と獣医は言っていましたが、毎度動物
共感
他人を理解するために、すなわち、彼の感情をわれわれの内面で模像するために、われわれは実際しばしば、彼のしかじかの一定の感情の起因を尋ねて、たとえば、なぜ彼は悲しんでいるのか?と問う。― そうすると同じ起因にもとづいて自分でも悲しくなる。しかしそれよりもはるかに普通であるのは、そうしないで、感情が他人において及ぼしたり示したりする結果に従って、その感情をわれわれの内に引き起こすことである。 曙光 142 「他人に共感する」ということがよく推奨されていますが、相手を理解することと同調することは別物です。 普通はある人と
罪としての懐疑
キリスト教は円を完結するために全力を尽くした。そして懐疑はすでに罪であると告白した。人は理性なしで、奇蹟によって、信仰の中に投げこまれるべきであり、さてそれから信仰の中を、最も澄み切って明白な活動舞台にはいったように、泳ぐべきである。 曙光 89 前半 「懐疑はすでに罪である」という構造は、カルトを含め世界中の宗教によくありふれている構造です。 「疑うということは信仰心がない」 そういって、考えることをやめろ、という感じにもっていきます。 これは一方で正しく、一方で誤りです。 「疑い、考える」ことで洗脳やマインドコ
自発的な盲人
ある人物または党派に対する、一種の熱狂的で極端な献身がある。これはわれわれがひそかにそれらに優越感をもつこと、われわれはそれらのために自分に不平を鳴らすことを示す。われわれの眼があまり見えすぎた罰として、われわれはいわば自発的な意志で自分を盲目にするのである。 今年の6月に僕は目が日に焼けて、いわゆる雪目(紫外線性角膜炎)になりました。そうこうしているうちに、なぜかその数ヶ月後、家族も雪目になりました。僕の雪目とは比較にならないほど重症でした。 眼科に運んでいったのですが、なんせ眩しいのが辛いということで、移動中で
われわれの方が高貴である
忠実と、寛容と、名声への羞恥心。この三つがひとつの心情に合一すると― われわれはそれを、貴族的、高貴、高潔と呼び、これによってギリシア人を凌ぐ。 曙光 199 序 「高貴」という字を見ると、どうしても10代の頃にオールディーズライブハウスで見かけた「軽快にステップを踏む髭のおっさん」を思い出してしまいます。 「こうしたものの嗜みもあるぞ」という感じで得意げです。高そうなスーツに口髭、「ステキですね」の一言を欲して仕方ないという感じでしょう。 そう言えばその頃くらいに、メディアが「セレブ」という言葉を浸透させようと躍
戦場で
「われわれは物を、それが値する以上におもしろく考えなければならない。ことにわれわれは長いことそれを、それが値する以上にまじめに考えてきたのだから。」― 認識の勇敢な兵士たちはこう語る。 曙光 567 真面目なことはいいのですが、歴代の偉人とされるような人々をよくよく観察すると、本質に対して真面目であるだけで、社会的には不良だった人が数多くいます。 イエスに関しても、真面目という意味では当時主流だったファリサイ派に対しては異端ですし、先ほどのマルティン・ルターに関してもローマ・カトリック教会からすれば不良です。 シッ
偉大な慈善家ルター
ルターが及ぼした影響の中で、最も意義があるものは、聖者たちに対し、キリスト教の観想的な生活全体に対して、彼が喚起した不信にある。それ以来はじめてヨーロッパで、非キリスト教的な観想的な生活への道がひらけ、世俗的な活動と世俗人に対する軽蔑が制限された。 曙光 88 序 ここで言うルターは、もちろんマルティン・ルター(Martin Luther)、1500年代に活躍したドイツの神学者です。世界史なんかでも習いますね。ローマ・カトリックからプロテスタントという宗教改革で有名な人物です。 ちなみに、ルターは暴飲暴食、肥満、痛
公私の告発者
告発し審問するすべての人をよく観察せよ。― 彼はその際自分の性格を露呈する。しかも、その犯罪を彼が追跡している犠牲者の性格よりも劣った性格を露呈することが珍しくない。告発者は、ある犯罪あるいは犯人の相手方は必ず元来よい性格でなければならぬ、またはよいとみとめられなければならぬ、と少しも悪気なしに考えている。― そこで彼は勝手気ままである。すなわち、彼は意中を明らさまにするのである。 曙光 413 告発者という字を見て、確かひょっこりひょうたん島か何かのゲームで出てきた「告発者の日記」が頭から離れません。「告発者の日
倫理的な奇蹟
倫理学という科目がありますが、何だか哲学とごっちゃにされていたりしつつ、「誰々の〇〇という思想はどういうものか?」というお勉強の類に終わっているのが非常に残念だと思っています。大学の学部に関しても、海外では哲学部というものが結構あるそうですが、日本では文学部哲学科という省庁で言うところの庁くらいの位置付けになっているようです。 義務教育ではそうした哲学や倫理思想、そして道徳がごっちゃになっていて、ありえないほどの短絡的な道徳が教え込まれていたりします。 かなり前に「覚えやすい誕生日」で「母の日の一件」と言うものをお
安価に生きる
最も安価で最も無邪気な生き方は、思索家の生き方である。なぜなら、単刀直入に言えば、彼は他の人々が軽視したり残したりする事物をこそ、最も多く必要とするからである―。 曙光 566 序 「安価に生きる」という感じを見ると、思索家は節制して生きるというような感じにも見えそうですが、楽しむという点で安価に生きるという点で捉えることもできます。思索のタネは日常の中にあり、人が消費して浮かれているところを冷静に見るというところなどから、思想家にはいくらでも楽しめるという特徴があります。 浪費家の行動の奥にあるものを冷静に観察し